となりまちにはかしこいのらねこがいるらしい
適度に晴れた昼下がりの、暖かな灰色土の上で微睡むのは、やはり最高の贅沢だ。灰色土は固く、ザラザラとしており、日差しや月でコロコロと性格を変えるので、大変な困り者なのだが、今日のように適度に晴れた良き日には、ぽかぽかと暖かく、表面の刺激もむしろ心地が良い。
そんな良き日にのんびりと微睡んでいると、先日聞いたうわさ話を思い出す。
「となり町には、かしこい、のらねこがいるらしい」
そんなことを言っていたのは昼寝仲間のノラだったか。なんでも隣町に、大層頭の良い猫がいるらしく、そいつは誰も知らなかった餌場を次々と見つけてきたり、マタタビの素敵な香ばしさをさらに高める方法を編み出したりしたらしい。さらには、あの大きくてドン臭い猫達から逃げおおせるのも上手らしく、街の野良猫たちからヒーローのような扱いを受けているのだという。
ヒーローキャットは性格も良いらしく、利益を他の野良に分け与えることにも躊躇がないようで、…そういえば、そうだ。この話をしていたノラは今日はそのヒーローに会って肉球をかわしてくると言っていたのだった。相当な熱の入れようで、心配ではあるが、ノラはあれで強かなところがあるので、杞憂に終わるだろう。
私はお腹についたノミをしっぽで払うと、今度は完全にうつ伏せになり、背中の方を
温めることにした。
ぽかぽかとした陽気にさらされていると、大概どうでも良いことばかり浮かんでくる。
賢さとは何であろうか。
件のヒーローは、どうも様々な実利を生んでいるらしく、そのことで野良猫たちから大きな尊敬を受けている。しかし、それでも、彼は野良猫である。ある日突然、あの大きくてドン臭い猫達の一人に連れ去られてしまうかもしれないし、あるいはあの見上げるように大きく速い鉄の猫に跳ねられてさよならをするかもしれない。
その点で、家猫はどうだろう?
彼らはずっと平和な生き方をしているように思える。あの大きくてドン臭い猫達に時折しっぽを振ってやるだけで、ヒーローが苦労して手に入れたすべてを手にしてしまうのだ。
効率というものを考えるなら、こちらのほうがよほど賢い振る舞いに思える。
それでもきっと、こんな話を賢い野良猫に聞かせたとしても、彼が家猫になることは無いだろう。彼はその賢さ故に、賢い生き方を選べないのだ。
「お、ミケだ〜!今日も何も考えていなさそうな顔でのんびり寝ているのね」
元気な鳴き声が聞こえてきたので少しまぶたを押し上げると、目の前にはたびたび、私の元を訪れるあの大きくてドン臭い猫の一匹がいた。何も考えていなさそうな顔とは失敬な話である。
普通の野良猫なら即座に逃げだすところなのだが、ここでは少しルールが違う。世間ではあの大きくてドン臭い猫に捕まると、どこか遠いところへと連れて行かれてしまうともっぱらの噂だが、ここの彼らは、連れて行くどころか、なぜだか餌までくれるのだ。とはいえ、私も一度だけ彼らに連れて行かれたことがある。何度か餌をもらううちにすっかり警戒心の薄れた私は、彼らに抱き上げられ、どこかへと運ばれるうちに眠ってしまった。目が覚めると、お気に入りのお昼寝場所へと戻っており、夢かとも思ったのだが、驚くべきことに雌になっていたのだった。
それからというもの、雌猫を追いかけるような気にもなれず、こうして日がな一日
ゴロゴロしながら思案に暮れるというわけだ。
私は思案する猫である。
こうして大きくてドン臭い猫に抱きかかえられ体中を撫でまわされて、ぃ…いるときもっぉぉん、今のは不味いぞお嬢さん。そう、私は思案する猫である。たとえ、灰色土の上に零れた水のようにだらりと広がり伸びていたとしても、深い思案の中にいるのだ。
私は賢猫であるとは到底言いがたいし、もちろん家猫でもないが、それでもヒーローよりは良い暮らしをしているのでは無いかと思う。大きくてドン臭い猫たちの話を漏れ聞くにはここは学生宿舎という場所らしく、それ故に飯が食えているそうなのだが、いったいそれにどのような因果があるのか私には皆目検討がつかない。しかし、結果としてこのような飯の種にはなりそうにもないことばかりふつふつと浮かべては消し浮かべては消し生きていけるのだ。
と、そんなことを考えている間にも大きくてドン臭い猫のお嬢さんの愛撫は続いており、はじめ激しかったその手つきは次第に眠気を誘うような穏やかで心地よいものになっていった。お嬢さんの手腕はなかなかのもので、撫で回されながら思案を続けるうちに意識が遠のいてきたのを感じる。フワフワと浮かぶような心地良い感覚に次第に負け始め、ついには私は意識をすっかりと手放してしまったのだった。
翌日も翌々日も私は思案する猫である。日が昇っては沈み、雨がこぼれ、空へと掬いあげられても、私は大抵思案する猫である。ノラのように積極的に遠出をするような性格を羨むこともなかったとは言わないが、結局のところ性というやつである、性に合っているのだ。
その日、目が覚めると日も暮れ始め、顔を赤らめた太陽が斜陽をのぞかせていた。灰色土も冷え始め、私が転がっていた場所とその周りとで温度差ができている。少し寝すぎてしまったようだ。そろそろ帰ろうかと思い腰を上げると、少し遠くにノラの姿が見えた。例のヒーローが現れてからというもの、ここ数日毎日のように隣町へと向かっていた彼女だが、今日はなぜだかやけにしょんぼりとしており、今にも泣きそうな顔をしていた。
ああいう顔をした奴に話しかけると大抵の場合面倒な長話が続くというのは、まあ、経験上覚えがあったが、私は思案する猫であるだけでなく、紳士な猫でもあるので、やあやあ、一体どうしたのかねと、声をかけてあげることにした。
彼女、ノラは今日も例のごとく隣町のヒーローに会いに行ったそうなのだが、いつも彼のいる場所をいくつも巡っても姿が見えず、疑問に思い、見知らぬ猫に事情を聞けば、彼の行方はその前日の夜ほどから不明で、今も街猫総出で捜索中であるという。街の猫の噂話のネットワークは早い。私のようなまったりとしたしょうもない猫とは違い、彼らは街中に情報網を持っている。その彼らが総出で探しているにも関わらず見つからないというのなら、可能性は絞られてくる。あの大きくてドン臭い猫達の、とりわけ怖い者達に連れて行かれてしまったか、鉄で出来た素早い猫に当てられてしまったか…いずれにせよロクな想像ができない。もちろんノラもそんなことは重々承知であろう、その日の私はひたすら聞き役に徹した。
それから7度日が入れ替わってもヒーローは見つからなかった。ノラも度々街に行っては彼を探していたようで、私のところにも街の情報が断片的に伝わってきた。街猫の切り替えは早かった。既に多くの猫達は彼を探すことを諦め、いつもの日常に戻っていったようだ。困ったのは彼に強くを依存していた猫達だ。彼の偉業は私に伝わってきたものより遥かに大きなモノであったらしく、彼のもたらす利益は、私の両手の爪の数を足してもまるで数えきれない程の猫に、十分な食料や娯楽を提供できるほどだった。そこで、何匹かの猫達は自分たちのもともとの仕事を投げ出し、彼の機嫌を伺うことに専念した。そうして、大胆な決断をした猫達は彼のいる間かなりの甘い蜜を吸うことができたらしい。そのことで気が大きくなったものも少なくなかったようで、ヒーロー周りの一派は保守的な猫達にはむしろ煙たがられていたのだとか。彼があまりにも唐突に姿を消したので彼の取り巻きたちには何も残らなかったのだ。一時は栄華の中にいたとはいえ、彼らは少数派である。つながりを大事にする街猫達の中に戻り生きていくは難しいだろう。彼がもう見つからないことなどとっくに気がついていながらも、未練がましく彼を、いや、あるはずだった自分を探し続けているのだろう。
更に7度日が入れ替わる頃にはノラも落ち着きを取り戻し、いつものようにゴシップやらなにやらを追いかけては私に話に来るようになった。街の様子もノラに似たようなもので、ヒーローがいたという話題すら出ることが少なくなった。
私は思案する猫である。
あるいはヒーローもまた思案する猫であったかもしれない、それもおそらくヒーローは私よりずっと建設的な思案をしていたのだろう。彼の顔は外を向いていたのである。私は眼差しを内に向け私について思案し続ける。その限りにおいて私は私に認識されている。しかし、ヒーローに顔を向けるものなど、果たしていたのだろうか。ノラが見ていたのは彼ではなくヒーローであっただろうし、彼の取り巻きが眼差しを向けたのは彼ではなく、彼のもたらすもの、そして今彼らが追いかけているのは、得られるはずだった自分たちの姿であろう。彼についての噂を聞いていただけの者達は、そもそも明らかに、彼を見ていない。いや、まて、そもそも自分とはなにか、内向きに思案する私の瞳には一体何が写っているというのかーーー
考えすぎるというのも考えものである。
目の前に迫る鉄の猫にすら気が付かないのは問題外だ。
私は思案する猫であった。