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私は思ったより疲れていたのだろう。
あっと言う間に寝入り、陽が高くなってから目覚めた。
起き上がってぼうっとしていると、この夢の様な寝心地の寝台も現実じゃないように感じてくる。
自分で片頬を叩いてから、裸足で床に降りた。
着替えが客間に置いたままかもしれない。
こういう場所でかしずくように世話される事なんてされた事が無いのだから、不安になってしまう。
細々とした事が分からない。
客間を覗くとソファ横の小机に私の荷物が置いてあった。
私は裸足でそろそろと客間に歩いていき、荷物を確認した。
ちゃんとマントも畳んであって、裏のポケットに入れてあったお金も無事だ。
しかし、神殿だって何があるか分からない。用心しなくてはいけない。
今後は寝る時にも金は枕の下に入れて寝ようと決意する。
昨日着ていたシャツが無くなっている。
確かサリーズが洗濯すると言って昨日持っていった。
服屋の勧めるまま、シャツの予備を数枚買っておいたのは正解だった。
特別な刺繍やフリルを使わない、既製品のシャツは比較的安いらしい。
確か一枚が銀貨1枚だ。
それだって、銅貨一枚で大きな白いパンが1つか2つ買える事を思うと、お金を手にする前の自分だったら大金なのだ。
今では金貨や白金貨も持っているから、気分が大きくなって沢山買ってしまった訳だが。
今日は生成りのシャツと濃紺のパンツに着替え、ブーツを履いてから、肌寒いのでシャツの上からチュニックを被り、腰の上からベルトを締める。
こういう格好の金持ちの子供を見掛けた事があるし、店員が流行だと話していた。
だから装いとしては間違っていないと思う。
服屋に勧められた紺色のチュニックは、大きめのものだが、シャツの襟が出るように襟ぐりが丸く開いていた。
その縁の胸元の中心に切れ込みが入っている。
紐で胸囲の大きさを調節出来る様になっているのだ。
その縁には同じ色で刺繍が少しだけ入っている。
店員がパンツの濃紺色と合わせてくれていたのだろうと思う。
室内にある鏡で姿を確認すると、自分では無いように思えて不思議だ。
格好を変えただけで金持ちに見える。
昨夜石鹸で洗った赤っぽい金髪が飛び跳ねている他は、どこかの若様の様である。
前屈みで蟹股のだらし無い姿勢を正して、背筋を伸ばし寝癖の付いた髪を手櫛で整える。
口角を持ち上げてみる。鏡に映る自分自身を見て得意になってしまう。
その時、扉がノックされた。驚いてビクリと肩を跳ねさせて、悲鳴を短くあげたそれが返事になり、神官見習いのサリーズが入ってきた。
「あ、ルーク様、おはよう御座います。起きられていたのですね。声を掛けて下されば良かったのに。朝食をお持ちしますね」
もう昼に近い筈だが、サリーズが朝食を持ってきた。
「菜園がありまして、早朝にとれた野菜です」
「やっぱり。菜園があるんだ」
「はい。この神殿の丘の南にある斜面で、果物と野菜が採れるのです」
スープの中身はパン粥でドロドロしていたが、新鮮な野菜を煮たものや、果物が剥いてテーブルに並んだ。
「昨日お話した、治療術士のオンサール様が、午後、診察にいらっしゃるそうです」
「そうなんだ」
「はい。その時はお世話に参りますね。それまで、神殿の授業に出席してきます」
「あ、勉強?」
「はい。通常の学園とは少し科目も違いますが」
「じゃあ、また、午後ね」
「はい、片付けますね。失礼します」
サリーズの言う通りならば、この神殿では見習いの為の学校があるようだ。
私は文字を知らないから、ここで滞在中に教えて貰えたら助かるし嬉しい。
記憶が抜けているという事にしてあるのだから、文字を忘れて分からないと言って、勉強すればいいのだ。
総てが上手くいくとは思えないが、アルスイール家が私など知らないと言えば、この神殿も少しは私を置いてくれるのではないだろうか。
逆に、アルスイール家が、私を引き取るなんて言い出した場合、どうしたらいいのか分からない。
でも、まあ、その可能性は殆ど無いだろう。
親族の名簿に記録の無いような痩せっぽちの子供など要らないだろうし、実際に生い立ちなど出任せなのだ。
それにアルスイール家が何の情報も無い私はどんな家だか知らない。
金持ちそうだというのは分かる。
服屋の店員の話や司祭との会話で、雰囲気的に貴族なのだろうと予想している。
でも、貴族というのはピンキリだと戦場で男達が話していた。
農家のような暮らしをして、その日暮らしの貧乏な田舎領主も居るというのだから。
私の作った偽の生い立ちだと、苦しい生活を強いられていた子供だと察するだろう。
少し位、言葉遣いが変だろうと、所作がおかしかろうと、子供だし大目に見てくれると思う。
私はこの頃、常識を知らず、大それた詐称をしているという感覚が無いまま、軽い気持ちでその後も嘘を付き続けていった。
午後になって、サリーズが先に部屋に来てから、オンサールという年寄りの治療術士と司祭が部屋にやってきた。
「んー。精神的なものや、記憶の障害は……儂には手に余るのぅ。坊の場合、沢山食べて肉を付ける事。それから、戦時は皆が家族を失って、坊の様に痩せてしまう者も多い。だが、時間が解決してくれる。だから、安心して暮らせる場所さえあればいいだろうよ」
「オンサール殿、では……治療は見込めないのでしょうか」
嘘っぱちの病気に司祭と二人で真剣に話し合って、こんな風に対応してくれているのを見ると、私は居心地がすこぶる悪くなった。
「何処かに怪我しているなら、塞ぐ事も出来るし、内蔵に欠陥があるなら治せるのだがの。事情を聞く限り、痩せてしまった原因や記憶の件は、精神的負荷のものだろうよ。何を覚えていて、何を忘れたのか、分かるかの?」
「あの、住んでいた場所や、実家と家族や仲の良い人の名前、それと、文字も全然思い出せないのですけど」
「ううむ。名前を思い出せないという症状は聞いた事があるが……文字か。数字も何も全部かの?」
「はい。見ても、ひとつも読めないし、書けないです。さっぱり分かりません。数は数えられるのですけど、書けないです」
「どんな貧しい子供でも、少しは知っているものだ。これは、記憶の欠落なのだろうのぅ。後、気になるのは、住んでいた土地の場所を忘れている事か。何かその場所の過去を思い出したくないという、精神的負担があるのかの……」
「ああ、オンサール殿、実は、彼の名前も……、あ、いえ、少しよろしいですか? 私の部屋でお話致します」
「む。ではの。心穏やかに静養されよ」
司祭と治療術士が客間から出て行った。
サリーズと私が客間に残された。
シンとした部屋の中で、サリーズが私を見て、おずおずと話し掛けてきた。
「お力を落とされませんように。きっと思い出します!」
「……うん。あのさ、昨日、学校があるような事言ってたよね?」
「はい。神学校ですか?」
「そこで文字は習えるかな?」
「えーと。文字の習いは初等学ですから、神学校とは別で、神殿内じゃなくて街の学校になりますね」
「街の学校……」
「ルーク様はきっと、勉強は家庭教師から教えて貰っていたのでしょうね。僕がここに来る時で良ければ教えますよ」
「本当に? そうしてくれたら、とても助かるけど」
「分かりました。紙とペンはご用意していただかなくてはならないのです」
「うん。じゃあ、これから街に買いに行って来るよ」
「ええ!? 今からですか? では、少しこのままで待っていて下さい!」
乗り気な私に驚いたサリーズが、私の外出の許可を司祭に取りに行くと言って、部屋を飛び出していった。
その後、サリーズが戻ってきて、神殿の馬車を出す事や、神殿騎士を護衛として付けるという事を伝えてきた。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
サリーズも外出したかったみたいだが、神殿には厳しい規律があるらしく、遊びの様な買い物は滅多に出来ないらしい。
マントを羽織って神殿の入り口で待っていると、私の居る客間に昨日ここまで案内してくれた騎士が顔を出した。
「お待たせしました。昨日は失礼しました。私はビシャード・エンリックと申します。今日は街までの護衛を勤めますので、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。私はルークです。ビシャード様」
私の文字の勉強の為に、街の雑貨屋で紙やペンを買い求めた。
それから、サリーズへのお礼として、何が良いかビシャードに相談した。
「彼には、そうですね。菓子がいいのでは?」
そんな助言を貰い、店に寄ってサリーズには甘い菓子を買う事にした。
菓子というものを私は食べた事が無かったので、その場で買って齧ってみたのだが、それが衝撃的に美味しいと知った。
甘い味が口一杯に広がり、私は口内に唾液がジワジワと増えるのを感じ、口元を抑えて笑顔になる。
その食べ物が気に入った私は、菓子を多めに買い求め、ビシャードにもお裾分けをした。
「私にも下さるとは、ルーク様はお優しいですね」
「いえ、また護衛して、下さる時はお願い、します」
街に子供ひとりで行くのは危ないと知っているから、強そうな騎士に護衛してもらえるなんて、とても安心できるのだ。
朝食を摂った後と夕飯前後の時間に、サリーズから文字を教わる。
そのような暮らしに馴れてきて、ひとつの季節が過ぎてもアルスイール家からの返答は無く、司祭も私の出自の確認を諦めたらしい。
「沢山の寄付をして頂いたのに、お役に立てなくて申し分けない。しかし、成人するまで神殿宿舎にて生活を保障しましょう」