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ガタコトとした揺れと音で私は意識が浮上した。
私はまだ生きていた。
感動も無く私は目を開ける。
襤褸雑巾の様な自分を拾った人間が居た事の方が驚きである。
壮年を過ぎただろうと分かる草臥れた男女が私の顔を覗き込んだ。
「坊、起きたかい?」
不精髭の多い男に声を掛けられる。
ギニーニ帝国の訛りが強い。
あちらでは奴隷狩りがあるという噂を聞き、私は腹の虫が泣き喚こうが、ガルトマ国側に居続けたのに帝国側に来てしまったのだろうか。
私は目を見開き怯え、悲鳴をあげかけた口を噤む。
「心配しなさんな。坊を売ろうとは思ってないよ。川の傍に荷馬車を寄せとくれ」
私に安心させる様に声を掛けた女が、男の方に荷馬車の移動を促した。
「あいよ。えらく臭うもんなあ。坊は川で洗わなきゃならん」
「そうよ。それから何か食べ物を口にしないと、死んじまうよ」
もしかしたら親切で拾ってくれたのかもしれない、とは思ったが、生きている人間は怖いのだ。
これまで優しく接してくれた大人は皆無だったから信じきれない。
この夫婦の介助を仕草で断り、川で少しだけ肌を擦る。
空きっ腹に水の冷たさが響いて、全身を洗う気にはならない。
見て居られないといった呈の女に捕まり、雑草の束でもってごしごしと肌を擦られた。
私は内股に巻き付けた金の入った麻袋が見つかるかもしれないと戦々恐々とした。
その場の浅瀬にしゃがみ込む。兎に角、女から距離を取ろうとしてしゃがんだまま腰まで川に入ってしまった。
行動の末、傭兵に臭い汚いと言われた髪の毛まで、女にジャバジャバと洗われてしまう。
「汚れが落ち切らないねえ。元の髪色は明るい色みたいだけども。もう出ましょ。寒い寒い」
夫人も疲れてしまったのか、洗うのを中断し私を河原に引き摺っていく。
私は寒さに歯を鳴らしながら震える。
男が焚き火の用意をしているそこの脇に座らされて、身体に布を巻き付けられる。
「おお。臭いのは随分ましになったなあ。汚れは石鹸が無いとどうしようもないだろ」
「ええ。まあ、この街道は川に沿ってるし、毎日洗えば少しはまともになると思うよ。それに街に行けば石鹸も手に入るでしょ。ほら。これをお飲み」
木椀に干し肉を入れた塩味のスープを入れて渡される。
栄養と水分を要求する身体は遠慮を知らず、それを奪い盗るようにして引ったくると、椀を抱え込んでズズズと啜る。
「なあ。坊。儂はホランゾ・オスカという名だ。こっちは女房のメノーラ。お前の名は何だい?」
3度スープをおかわりして、落ち着いたと見るや自己紹介してきた。
「ルバンク(屑拾い)」
私の名はずっとそれだったから、そう答えるしかないのだが、夫婦が顔を歪める。
「名が無いのか。可哀想に」
「いいじゃないのさ。これから坊をルークと呼ぶわ。それで良いかい?」
何でもいい。ルバンクと似た名前に私は頷いた。
ここから私の名は『ルーク』になった訳だが、ルバンクを省略しているのだと思って、それからも名乗りを『ルバンク』をやめなかったし、その上で通称『ルーク』と呼ぶのだと思い込んでいた。
旅の間、夫婦からは商売の事や家族の事などの話を聞きながら移動していた。
ホランゾ・オスカは、戦前ガルトマ国とギニーニ国を行き来する商いをしていたらしく、拠点はギニーニ国の都にあった。
元々ホランゾの実家はギニーニ国の農家で、そこの三男として生まれた。
子供の頃に奉公にあがった店の商人が遣り手で、大きな店舗に育ち、ホランゾは成人してから、自分で行商をしつつ販路を増やし、店を持つまでになったという。
ガルトマ国の港町リウプロの近くの村が、夫人メノーラの出身で、商品の薬草をリウプロの店に売りに来た所をホランゾに見初められたのだ。
この夫婦は戦争の間、商品の仕入れ先であるガルトマ国に入国出来ず、流通が途絶えてしまった為に、店を畳むしかなかった。
2人いた息子を徴兵されてしまい、長女は戦前に南のフテラ国に嫁に出てしまっていた。
兵士になった息子達の帰りを待っていたが、多くの戦死者の仲間になって連絡も途絶えて久しい。
ギニーニ帝国の旗色が悪いまま停戦になり、より豊かなガルトマ国に移動する決意をした。
関所では厳重な審査があるが、メノーラは元はガルトマ国民であり親類も居る為に入国しやすい。
兵士以外も関所を潜れる事になった今、オスカ夫婦は夫人の実家のあるリウプロの街の近くの農村を頼る事にしたらしい。
その移動途中で私を拾ったのだった。
息子が死んでしまい、働き手が歳をとった夫しかいないのだから、これから農作業をするのだという中年の夫婦は不安だろう。
ギニーニ帝国では戦争孤児の殆どが奴隷になっていて、働き手として奴隷を買うには金が掛かる。
ガルトマ国に入国出来て、ルバンクを拾っていけば仕事の手伝いをさせるのに丁度良いのだろう。
打算があるのだから少ない食料だって分け与える。
しかし、最近ではルバンクは非常に少ない。
飢えや病気、食べるものを探し街に移動したりして、欠損のないルバンクを戦場付近で見かける方が稀であるのだ。
ギニーニ国から流れてきた夫婦は、そういう事情を知らなかったのだろう。
「そんな訳だから。あんたにはそこで畑仕事を手伝って貰いたいんだよ。ルークの様な動ける子を探しているんだが、関所付近じゃ、もう居ないんだよねえ」
この夫婦が本当の悪者ではないのは分かる。打算の上で、それを私にしっかりと教え話して理解させようとしている事こそが証拠である。
それに街に着くまで、ここで逃げても食料が無いのだ。
長い距離を荷馬車に乗せて貰えるのも嬉しい。
だが、内股に巻き付けてある大金を、この夫婦には見つからない様にしないと取り上げられてしまう、と不安になる。
商人をやっていたホランゾがその金を見たら、私から取り上げて商売を再開する資金にしてしまう事だろう。
そんな大金を持った事が今まで無かったから、金の価値は実際には理解していないが、金貨は兎も角、白金貨というのは貧乏人にはお目にかかれない、貴人しか持てない価値があるモノだという事だけ、噂で聞いて知っていた。
オスカ夫婦はリウプロの街に寄って、生活用品を買ってから農地に向かうらしい。
その街で私は逃げ出そうと算段をつける。
本当はオスカ夫婦の提案にも心が揺さぶられた。
農家で仕事をさせられるからといって、今までの生活よりは随分と恵まれた日常が送れるに違い無いからだ。
だが、気ままに生きて行けるだけの大金を、私は今持っているのだ。
その誘惑は抗たいものだった。
美味しい料理を自分で好きなだけたらふく食べられるという誘惑に、私の意思は敵わなかった。
後になって、あの時、オスカ夫婦に言われた通り、農村まで着いて行けば、平凡な一生を遅れたのではないか、と思ったりもする。
そうやって私は、いくつもの枝分かれした自分の運命を、自分で選び取り、進んでいったのである。
ところで、この夫婦が他の旅人と少し違う所があるとすれば、魔獣避けの魔具を持っていた事だ。
ホランゾは元商人で、旅馴れていた。
「こうしてな、四隅にこの魔具の杭を差し込んで置くと、範囲内は魔獣から私らは見えなくなるし、こちらの臭いも分からないんだぞ」
元商人の魔具の説明はとても分かり易く、知らずに魔具の知識を蓄えられた。
そういう魔具も元々売り物だったからか、荷物の中には様々な道具があって、比較的安全に旅を続ける事が出来たのだ。
盗賊も街道には出没するが、属性別の魔具である魔球を投げつけると、魔法の火や水で撃退が出来る。
護衛もなく、荷車を平凡な夫婦二人だけで旅が出来るのは、そうした心強い理由があった。
そんな魔具を沢山持っているのだから、ひ弱な夫婦だと侮ると痛い目に合う、私も極力逆らわない様に大人しくしていた。
私は移動中に何回も川や沢で身体を洗う内に、汚れが殆ど落ちていって、着ている襤褸を抜かすと、物乞いには見えなくなっていた。
ホランゾの古いシャツを貰い、大きさが合わずブカブカだが、上半身はかなりまともな格好だ。
背中まで伸び放題にしていた髪も、顎下で切り揃えて貰い、スッキリした。
私の見かけが変わった一番の原因はそれだろう。
その為、酷い悪臭は消えて、蚤や虱が荷馬車にうつる心配も無くなった。
「結構見れるようになったなあ。汚れのおかげで日焼けしなかった、っていうのは笑えるがな。あはは」
「本当にねえ。肌がこんなに白いなんて。私達より綺麗だわ。聖教会の見習い神官様みたいね」
何年もの積み重なった汚れは、泥と汗と血によって何層にもなっていて、私の全身にこびり付いていた。
そのために、肌をごしごし毎日擦らないと、それが取れなかったのだが、汚れが日焼け防止になっていたのか、出てきた剥き出しの肌は白かったのだ。
最初は全身が真っ赤にかぶれていたのを、メノーラが見かねて手持ちの薬草を使って治療してくれた。
細くて頼りない栄養の足りない身体と、目付きの悪さを抜かせば、川に写った私の容姿は、結構整っていて綺麗な人間の部類に入ると思われた。
そこで私は、メノーラの話に出て来た『聖教会の見習い神官様』という言葉で計画を思いついた。
訪れた事は無いが、古くから伝わる聖者伝説を元に、大陸全土に広まっている聖者を信奉する宗教で聖教会というのがある。
何となく、これから私が行く場所の目標が出来た気分になった。
聖者様という清らかでキラキラしい印象が、私の空腹で荒んだ暗い気分を持ち上げたのは確かだ。
リウプロの街は、港町で貿易が盛んらしく煩雑で人間が多かった。
街に着いた私は、露天で買い物をする夫婦をじっくり観察する。
これからの計画では買い物が必須なのだ。
午後になり安宿を探し、そこに私達は泊まる事になった。
ホランゾは一階の飯屋件酒場に行き、メノーラは宿の部屋で露天で買った生活用品の確認をしていた。
私は二人の目を盗み、渡された古着と靴を持って、その安宿から抜け出した。
彼らには打算があったとはいえ、怪我をした私を介抱してくれたり、ここに来るまで飯を分けてくれた。
(ごめんな)
心の中でオスカ夫婦に謝罪し、私は後ろ髪引かれる気分になりながら背を向けて走ったのだ。
オスカ夫妻との農作業という、平凡な未来を捨て、私は再び孤独に身を任せたのである。