『噂と真実』
幽霊マンションと巷では噂になっている、このマンションの管理人に身を置いて、竹内は三年と半年が過ぎていた。長年勤めた自動車部品の下請け会社を定年退職して、雀の涙のような退職金では生活は賄えず、息子夫婦に世話になる訳にも行かなくて途方に暮れている所へ知り合いから、このマンションの管理人の仕事を頼み込まれて二つ返事で承諾して夫婦でここへ越して来た。
「1111号室の市川さんご夫婦。このマンションの噂を聞かされずに引っ越して来られたみたいですね。お気の毒に……」
妻の吉江はお茶を飲んでいる手を止めて、夫の竹内を見つめている。竹内は吉江をチラッと見て、すぐに目を逸らしてお茶の入った湯呑みを卓袱台に置いてため息をついた。
「知らないのなら、知らない方が良いんだ。あんな噂は知らない方が良いに決まっているだろ?」
そして、少し不機嫌そうに吉江の言ったことに答えてから竹内は黙り込んでしまった。
「確かにそうですね。知らないならその方が良いのかも知れませんね」
吉江の言葉に竹内は黙って頷いて、あの恐ろしい出来事を思い返していた。
竹内が管理人になり丁度半年が過ぎた二月の寒いあの日だった。マンションではとても恐ろしい事件が起きていた。1111号室に住んでいた夫婦の一人娘が、両親の留守中に押し入った精神異常者に無残にも惨殺されてしまったのだ。それは酷い殺され方だった。腹を割かれて内蔵は全て引きずり出され、舌も抜かれて手足の爪も全て剥がされていた。繰り抜かれた両眼は犯人が持ち帰ろうとしていたらしいが、母親の通報で駆けつけた警官たちに犯人はすぐに取り押さえられ、その場で現行犯逮捕された。
娘の姿を最初に発見した母親は、悲しみとショックのあまりに気が触れてしまって、今でも精神病院に入院したままだと噂で聞いた。父親はその後、仕事が上手く行かず生活に困窮して1111号室を売りに出し、大切にしていた娘の絵画を部屋に残したまま失踪してしまった。
そして、1111号室は新たに別の持ち主の手に渡り、賃貸として貸しに出されたのだが、次々と入居した者たちが荷物をそのままにして消えてしまったり、気が触れてしまったり、引っ越して来た翌日に世にも恐ろしい物を見たという顔をして出て行ってしまったり、あまりにもおかしなことばかりが続くので、仲介する不動産屋の間でも有名な幽霊マンションと噂されるようになってしまった。
「あの夫婦に恐ろしいことが起きないことを祈りたいですね。今度こそあの部屋で落ち着いて暮らしてもらえたら、ここも幽霊マンションなんて噂されなくなりますしね」
吉江は物思いにふける夫の手をそっと優しく握って微笑んでいた。
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その頃、1111号室では……。真司よりも仕事を早く終えて帰宅した有美が夕食の支度をしている最中だった。
【ギィィィ―――――――!! ギィィィ――――――――――!!】
フライパンを握っていた手をビクッとさせて、有美はガスの火を止めて耳を澄ました。
【ギィィィ―――――! ギィィィ――――――――――――――!!】
真夜中に聞いたあの不気味な音が部屋中に響きわたっていた。
(何なの? この音は何なの!?)
有美はキッチンからゆっくりリビングへ移動していた。
【ギィィィ―――――――――――――――――――――――!!】
その音の気味の悪さに有美は恐怖さえ感じていた。
(気持ちが悪い。凄く嫌な感じがする……)
【カタカタカタカタカタカタカタカタ・・・・・カタン・・・カタン・・・】
何かがいるような気配さえ感じる有美は、その場にいた堪れなくなってリビングを出て玄関のドアを開けて逃げ出すように外へ飛び出て、ドアを閉めて鍵を閉めようと鍵を差し込んだ瞬間だった。
【ドンドンドンドンドン!! ドンドンドンドンドン!!】
部屋の中から誰かがドアを叩いている。有美は飛び上がって慌てて鍵を閉めると、エレベーターで一階へ降りてマンションの前で震えながら真司の帰りを待った。
(何だったの? 家の中には誰も居ないはずなのに。あれは一体何なの? 怖い……)
有美は震える足と震える手を必死で抑えながら、今起こったことを頭の中で整理していたが、理解出来ないことばかりでこれを真司にどう説明したら良いのかもわからなくて、その場に座り込んでしまった。
「有美!? どうしたのさ? こんな所で、家で何かあったのかい?」
有美が途方に暮れている所へ真司が帰って来て、震えている有美の肩を抱いて顔をのぞき込んでいた。
「うっうっうぇっ。真ちゃん。怖かった。うぇっ、うっ……」
有美は真司の顔を見てホッとして真司の胸に顔を埋めて泣き出してしまった。
「怖いって? 何が!? 誰かに何かされたのか? 有美?」
「わからないの。何かがわからなくて……あの部屋が怖いの」
話が良くわからず、真司はどうしたものかと思ったが、取り敢えず家には帰らずに近所の公園のベンチに有美を座らせて落ち着いてから話を聞くことにした。
「もしかして、また変な物音が聞こえたのか?」
「うん。夕飯の支度をしている時に今度は部屋中に響き渡っていたわ」
それを聞いた真司はゴクリと唾を飲んだ。
「他には? 何かいたか? 人影とかは?」
「何かがカタカタ物音を立てて、凄く嫌な感じがするから……慌てて鍵と財布を持って外へ出たの! それで、ドアを閉めて……鍵を差し込んだ時だったわ」
有美はそこまで話すと、急にその時の恐怖が蘇ったのか? 両手で顔を覆って身を縮めていた。
「その時。どうしたんだい? 何があった? 有美?」
真司が有美の震えている背中を擦りながら必死に聞き出そうとしていた。
「家の中から ”ドンドンドンドン!” って凄い勢いで何かがドアを叩いていたの。恐ろしい何かが……」
縮こまっている有美を見て、真司は有美の手を取って真剣な顔をしていた。
「部屋に戻って確かめてみよう。それから明日、念のために不動産屋へ行って、あの部屋で以前、何も無かったかを調べてもらってくるよ」
真司にそう言われて、有美も立ち上がり一緒にマンションへ戻って部屋の中を確認することにした。しかし、二人が家に戻って、朝起きて家を出るまで、あの気味の悪い物音は一切聞こえて来ることは無かった。
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翌日。会社の昼休みに真司は不動産屋へ足を運んでいた。真司は担当の山下春菜に昨日の話をして、あの部屋で以前住んでいた住人から何も聞いていないか調べて欲しいと頼むと春菜は少し険しい表情を浮かべていた。
「それって……。本当の話ですか? 私を怖がらせようと思って、大袈裟に話されている訳では無いんですよね? そんなことをする意味がお客様にあるとは私も思えませんし……」
「嘘じゃないんだ! 信じられないだろうけど、僕には妻が嘘を言っているようには見えないし、以前住んでいた住人のことを何も聞いていなかったから、念の為に調べておこうと思って伺っただけです」
真司の真剣な表情を見て春菜は背筋が少し寒くなっていた。社員同士の噂が嘘ではなく事実だとすれば、真司の話はあり得ない話では無かったからだ。
「もしかして? 何か、あるんですか?」
目の前にいる春菜の顔色が変わったことを真司は決して見逃さなかった。
「あると言えば、あります。確かに良くない噂が……」
人の良い春菜は、社内でのあのマンションの噂を全て真司に教えて更に三年程前に少女があの部屋1111号室で惨殺された事件のことも包み隠さず真司に話した。
「申し訳有りませんでした。私はずっと会社の先輩が作り上げた嘘の噂だと思っていたんです。まさか、本当に怪奇現象が起きているなんて知らなかったので……本当にすみません」
春菜は一生懸命真司に頭を深く下げて謝罪していた。真司はそんな春菜には責任は無いからと一言残すと立ち上がると、店を出て行ってしまった。
「どうしたの? 何か顧客とトラブル?」
「あの。『エーデルハイム葉山』の1111号室の件で……」
春菜の一年先輩の笹川暁斗に聞かれて、春菜がマンションと号室を口にすると笹川は一瞬、息を呑んで絶句していた。
「春菜ちゃん。あの物件扱っちゃったの? マジで?」
「そんなにあそこ……。ヤバイ物件なのですか? 私、知らなくて」
笹川は過去三年間に起きた幽霊マンションでの記事をパソコン画面に映し出して春菜に見せて自分が知っている事実を伝えていた。
「まず失踪に自殺未遂に精神病院への入院に原因不明の死亡事故。これはすべて、あの1111号室に入居した人たちの顛末だ。まさか春菜ちゃんが信じていなかったとは……参ったな」
「噂は先輩方が作り上げた嘘だと思っていました。本当だったなんて……どうしよう」
真剣に思い詰めて考え込んでいる笹川を目の当たりにして、改めて春菜はあの夫婦をあのマンションの1111号室へ案内したことを後悔していた。