『恐怖の始まり』
今年の初めに。この三年間、交際を続けて来た会社の後輩でもある十歳年下の中条有美との結婚を決めてから、めまぐるしく時が過ぎ、無事に結婚式を終えた市川真司は少し疲れ気味ではあったが、やっと二人で新たに生活を始められそうなマンションも見つかって、二十四歳の時に親から独立して八年間暮らしたこのアパートで過ごす最後の夜を迎えていた。
二人は一年前から、このアパートで一緒に暮らして来たのだが、築三十年の2DKのこの部屋はやはり、これから子供も儲けて暮らして行くには少し手狭だと二人の意見が一致したことで、新居とするマンションを探すことを決意した。会社のすぐ側にある不動産屋で駅チカ、3LDK以上、駐車場完備、勿論セキュリティ完備の家賃は出来れば相場より二割から三割安い所でと、店頭のまだ初々しさが残る可愛い女性スタッフに無理を承知で頼んで案内されたマンションの部屋が、想像していたよりも遥かに良かったので、有美は少し気味悪がってはいたけれど。何とか真司は説得に成功して、その三日後には契約を交わし引っ越しが決まっていた。
「あの絵のある部屋は真ちゃんの書斎兼、物置って約束は絶対だからね。私はあの絵の女の子が薄気味悪くて、今でも想い出すと背筋が寒くなるのよ……」
「有美は心配し過ぎだよ。部屋の掃除も僕がするから心配要らない。大丈夫だよ!」
少しピリピリしている有美に対して、真司は少し苛立ちを感じながらも有美の機嫌をそこねないよう返事をして、最後の自分の荷物をまとめていた。
「有美は少し勘が強いからね。あの絵から前の持ち主の何かを感じたのかもしれない。でも、僕はあの絵を結構気に入ったし、家賃も良心的できっと上手くやっていけるよ!」
「確かに駅も近いし、スーパーやコンビニも近くにあるし、あの部屋に三年住んで、気に入ったら買い上げ出来るって聞かされて、私も賛成したから絵の事位は我慢するけど、出来るだけ関わりたく無いの」
もともと、賃貸マンションではなく。分譲マンションの引っ越し先の物件の持ち主が、あの部屋に戻って来る予定は無いらしく。借り主が三年住んで気に入ったら、今の売値の三分の一の価格で買い上げさせてくれるという美味しい話を聞かされて、有美も契約に同意したのだった。
「部屋数も四部屋あるから、あの寝室を僕の書斎兼、物置にしたとしても。十畳の洋室を寝室にして、六畳の洋室は子供部屋の予定で八畳の和室は客間で十分じゃないか」
「そうなのよね。子供が出来るまでは当分仕事も続けるつもりだし、決めて良かったのよね」
明日に備えて二人は早めに床に就き、お互いの将来を楽しげに語り合いながら眠りについた。
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翌日は良く晴れた引越し日よりだった。業者が荷物を運び終えると、二人は管理人室へ菓子折りを手に挨拶に訪れていた。定年後にこの職に就いた管理人の竹内久志も感じの良い初老とは思えない体格の良い男性だった。竹内は話し易い人だったので、真司も有美も竹内とすぐに打ち解けホッと胸を撫で下ろし安心していた。
「良かった~。管理人さんが凄く感じの良い人で安心したわ!」
「そうだね。僕が以前伺った時は奥さんしかいなかったけど、奥さんも優しくて気さくな人だったし、これで安心してここで暮らしていけそうだ」
部屋へ帰って荷物を解きながら、二人は管理人の人柄が良かったことに安堵していた。
「少し気になったことと言えば。私たちの部屋番号を聞いて、少し間があったこと位かしら……」
「あれは部屋番号を聞き取れ無かっただけじゃないかな? 別に気にすることはないさ!」
有美は竹内が自分たちの部屋番号を聞いて、怪訝な顔をしたのを見逃してはいなかった。確かに真司も不思議に思ったのだが、単に部屋番号が聞き取れ無かっただけなのだと思っていたので、有美にも気にする程のことではないと笑ってその事は追求しないことにした。
そして、真司は自分の書斎になる予定の部屋で荷物を片付けながら。ふと、絵画を見上げ少女に微笑みかけると、絵の中の少女も少し微笑み返したような気がして一瞬ドキッとした。しかし、もう一度ゆっくり少女を見上げると、特に何もおかしな所は何も無かったので、真司はフッと臆病な自分を笑って気のせいだったのだと深く気にせずに残りの私物の片づけを終らせた。二人で粗方の荷物の片付けを済ませたころにはとっくに日が暮れてしまっていた。真司は夕食を兼ねて、有美を連れて駅前にある蕎麦屋で引越し蕎麦を二人で食べに出掛けることにした。
「こんなに美味しいお蕎麦屋さんが、すぐ近くにあるなんて嬉しい。駅は近いし色んなお店もあるから買い物には困らないし、やっぱり真ちゃんを信じて決めて良かった」
「良かった。有美がそう思ってくれたのなら一安心だ。これから心機一転、二人で頑張ろう!」
真司はよっぽど嬉しかったのだろう。酒を飲むペースが早くなり、帰る頃にはスッカリ出来上がっていた。有美は滅多に羽目を外さない真司に優しく肩を貸しながら、フラフラとよろけて歩きながら二人の新居へやっとの思いで帰宅した。その時だった。
【ギィィィ―――――! ギィィィ――――!】
「えっ!? 何? 今の……。どこからだろう? 気持ち悪い」
鍵を開けて中へ入った時だった。どこからか、鈍い金属が小擦れ合うような気味の悪い音が有美には確かに聞こえていた。
「真ちゃん? 真ちゃん! 起きて! 起きて! 真ちゃん!」
「ウ~~ン……分かった。起きる。起きるよ……有美……」
【ギィィィ――――! カタンカタンカタカタカタカタ…・―――――ギィィィ!】
今度は金属の小擦れ合う音と一緒に、何かがカタカタと音を立てている。
「やだやだ。真ちゃん!! 早く起きて!! 何か変な音がするの!」
有美は怖くて少し乱暴に真司の頬を叩いて、身体を前後に揺すって必死になって起こしていた。
「ど……どうした? 変な音ってどこから?」
真司は目を擦りながら玄関で横たわっていた身体をやっと起こし、怯える有美の肩を抱いた。
「し、真ちゃんの書斎からなの。ギィィィって鈍い鉄か何かが小擦れ合うような音と……カタカタカタ何かが動いているような音がして気味が悪いわ」
有美は今にも泣きそうな顔をして、真司の身体に抱きついていた。
「わかった。確かめよう……有美は僕の後ろにいて……」
真司は立ち上がると、自分の書斎のドアを開けてゆっくりと中へ入った。部屋へ入って壁に手を伸ばし、照明のスイッチをオンにする。明るくなった部屋をゆっくりと用心深く真司は何かが隠れていないか、念入りに隅々まで探した。しかし、何処にも金属や鉄が小擦れ合うような物は見当たらないし、部屋の中にいるのは真司と有美だけだった。恐る恐る、二人でクローゼットの中も確認してみたのだが、誰も隠れてはいなかったし物音の原因になるような物も無かった。
「僕の書斎じゃ無かったのか?…‥‥上の階か下の階の音が、通気口を伝って聞こえたのかな? こんなに静まり返った時間だと、自分の家の音のように聞こえることもあるかも知れないね。とにかく、空き巣や強盗では無さそうだ」
真司に言われて有美は黙って頷いていたが、身体はまだ震えていた。真司は優しく有美の肩を抱き寄せて、有美の身体の震えが止まるまで強くギュッと抱きしめていた。落ち着いた有美を抱き抱えるように寝室へ行き、有美が眠るまで真司は有美が聞いた気味の悪い物音がしないか用心深く耳を澄まして起きていた。しかし、その後は不気味な物音は静まったようで、真司が眠りに就くまで聞こえてくることは無かった。
読んで頂きありがとうございますm(__)m
このお話は全11話で完結の予定です。