プロローグ
1111号室の洋室にあるクローゼットの中で、咲良は小さな身体を震わせていた。両親が共働きの咲良はいつもと変わらず学校から下校し、鍵を開けて家に入り宿題を広げて机に向かっていたが、玄関でガチャガチャと音がして不審に思い。のぞいて見ると、知らない男がドアを開けて入って来ようとしていた。
咲良は母親から言われた通り内側からチェーンロックをしていたので、男はすぐには中に入れず苛立っている様子だった。(こ、怖い。っひ、ふぇ……。ママ助けて!)
小学一年生の咲良はどうして良いか理解らなくて、両親の寝室のクローゼットの中に隠れて泣きながら母親に携帯で連絡を取ろうとしたが、仕事中で母親は電話には出ない。同じ階の住人も平日の昼間は働きに出ていて留守なのか異変に気付いて出て来る者はいなかった。
【ギィィィ―――――――! ギィィィ――――――――!】
男は何かでチェーンを切ろうとしているようだった。
咲良は何度も何度も母親に電話をかけているが、つながらない。
【ギィィィ――――――――! ギィィィ――――――――――!】
(怖い。怖い。嫌だ。嫌だ。入って来ないで……。ママ……ママ! 助けて!)
咲良は必死に何度も何度も、電話をかけたが母親につながることは無かった。
【バタァ――――――――――――――――――――――ン!】
ドアが開いて男が中に入って来て男は大声で叫んでいる。
(怖い。怖い。来ないで! 来ないで! ママ! パパ! 助けて! 見つかっちゃう!)
「ヒッヒッヒッヒヒヒ! ヘヘヘヘ……クククククククククク」
(…………!)
咲良は必死で自分の口を両手で抑えて声をこらえて隙間から様子を伺っていた。
(なっ、何? あの人!? 頭が変なの? 気持ち悪い。普通の大人じゃない。怖い!)
頭のおかしな不気味な男は部屋中の物を叩き壊しながら、咲良を探しているようだった。咲良は見つかればきっと殺されてしまうと子供ながらに悟り、膝を抱き身を縮め息をひそめていた。
【ピピピピピピ! ピピピピピピ! ピピピピピピ!】
咲良の手にある携帯電話が鳴っていた。休憩中に母親が不審に思い折り返し掛けて来たのだ。すがるように電話に咲良が出たと同時に。クローゼットのドアが開き凶器を振りかざして男が咲良の目の前に立っていた。
「ギャァァァァァァ―――――――――――!」
電話の向こうで母親が聞いた最後の娘の声は、この世の物とは思えない断末魔の叫びだった。
****************
社員が十人余りの不動産会社に、勤務して一年目の山下春菜は、社員の間で噂になっている怪奇な現象が起きると言われている幽霊マンションの1111号室へ客を案内している最中だった。春菜は特に霊感も無かったのでそんな噂は先輩たちが後輩を怖がらせる為に広めた作り話だと、当然のように思っていた。そして店頭で客から要求された条件をパソコンに入力して検索した結果、幽霊マンションが画面に表示されていた。
「こちらのマンションの最上階十一階の角部屋でございます。ベランダが南向きですので、とても日当たりも良くて明るいお部屋でございます。きっと気に入って頂けると思います」
春菜は新婚の二人に得意の営業スマイルでマンションを案内していた。
「少し……。マンションの中が薄暗いわ。昼間なのに」
「そうだな……。人も見当たらないし、確かに静かで不気味だな」
二人に言われて春菜も少し気にかかっていた。良く晴れた昼間だというのにマンション内は薄暗く、本当に静かだったのだ。
「ご安心下さい。この物件は二十四時間管理人が常駐しておりますし、セキュリティも万全でございます」
春菜は出来る限りのフォローを入れて、二人を部屋まで案内して鍵を開けてドアを開いた。最上階の角部屋には玄関に洒落たポーチがあり、中へ入ると玄関もかなり余裕のある広さだった。
「広いわね~。収納も備え付けでオシャレだし」
「玄関のポーチも戸建てみたいで、格好良くって素敵じゃないか」
春菜がフォローするまでもなく。二人は玄関のポーチや収納を気に入った様子で、洗面やお風呂にトイレと順に確認して二人で物件を前向きに吟味していた。こんな時、春菜は客には納得行くまで吟味させて余計な案内をせずに様子を見ることにしている。
あれこれと将来のことまで話しながら、リビングやキッチンを吟味している新婚夫婦を微笑ましく春菜は後方から見守り羨ましく思っていた。その時だった。
【ギィィィ――――――――――! ギィィィ―――――――――!】
春菜はビクッとして振り返って耳を澄ました。寝室の方からおかしな何かがきしむような鈍い音が聞こえる。(えっ? 何!? 今の何の音?)
春菜は少し足が竦んでいた。寝室には誰もいないはずなのに何かの気配が感じてとれる。
「あの……。寝室も拝見されますよね?」
「あっ、もちろん見ます。この部屋ですね!」
二人には春菜に聞こえた様な不気味な音は聞こえて無かった様子で、若妻は寝室のドアを躊躇せず開けて中へ入った。十二畳程の洋室の壁には森の中にある大きな大木に吊るされた。ブランコに乗っている小学校低学年位の腰まで伸びた長い黒髪の透き通る様な白い肌をした少女が油絵で描かれていた。そして、その絵画は高価な銀の額縁に収められていた。
「素敵な絵画ですね。前に住んでいた方が置いて行かれたのですか? 高価そうなのに」
「でも、少しこの絵の中の女の子の表情が暗い感じで……私は気持ちが悪いわ」
旦那の方は絵画を気に入った様子でじっと見入っていたが、若妻は無意識に何かを感じたようで、絵画の中の女の子を不気味だと言って寝室を足早に出て行ってしまった。
部屋の中を吟味した二人は取り敢えずと旦那の方が手付金を置いて、その日は帰って行った。そして、三日後に旦那が店頭に来て、賃貸契約書を交わしてあの幽霊マンションに住む事が決まった。あれだけ若妻が気味悪がっていたのにどうやって説得したのか春菜は不思議だったが、この契約が成立した事で今月もノルマが達成出来て内心ではホッとしていた。
春菜は、この契約が後々に酷く後悔する惨劇の始まりだったなんて。知る由も無かった。