第一話 凪の始まり
しまなみ海道を渡るバスの窓から、幾重にも重なる島影が見えた。
かつてはこの海を、窮屈な檻のように感じていた。十八の春、あの日、逃げるようにこの島を飛び出した時の高揚感は、今や潮風に洗われた石のように摩耗し、跡形もない。
「……帰ってきたな」
村上航は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
東京のITコンサルティング会社に入社して九年。がむしゃらに働き、三十を目前にした二十七の今、彼は空っぽになっていた。
きっかけは、一年がかりで進めていたプロジェクトの破綻だった。信頼していた部下のミスと、上司の責任逃れ。板挟みの中で連日深夜まで画面に向き合い、ある朝、身体が鉛のように重くなって動かなくなった。診断書に記された見慣れない病名が、彼のキャリアに強制的な一時停止を突きつけた。
大三島のバス停に降り立つと、コンクリートの熱気とは違う、むせ返るような潮の香りと、熟した夏蜜柑の匂いが混じった風が吹いた。
「おーい、航! こっちだ!」
軽トラの運転席から身を乗り出し、日焼けした顔で手を振るのは、父の正一だった。
「……親父、わざわざ悪いな」
「何がだ。暇なジジイの唯一の仕事よ」
父は航の憔悴した顔を見ても、痩せこけた肩を見ても、何も追求しなかった。
ただ、「荷物、後ろに放り込め」とだけ言って、無骨な手でハンドルを回した。
航は、収穫した甘夏でいっぱいになったコンテナの隙間に荷物を捩じ込む。
「航、ほら」
父が食べかけの甘夏を手渡す。
「父さんの甘夏、久しぶりだな」
「今年は気候が良かったからな、特に出来がいいぞ」
そう言われて頬張った甘夏は、今の航には少し苦かった。
実家の玄関を開けると、台所から出汁のいい香りが漂ってきた。
「お帰り、航。お腹空いたでしょ」
母の薫が、十年前と変わらないエプロン姿で顔を出す。
そこには「どうしたの?」「いつまでいるの?」といった、航が最も恐れていた問いかけは微塵もなかった。
「……ただいま、母さん」
「いいから座りなさい。今日はいい鯛が入ったから、鯛飯だよ」
食卓には、島で獲れたばかりの海の幸が並んでいた。
不規則な生活で荒れ果てた胃袋に、温かい汁物が染み渡る。液晶画面の光ばかりを見つめていた目には、実家の白熱灯の灯りがひどく優しかった。
その時、奥の部屋から足音が聞こえた。
「なんだ、もう始めてるのか」
村上家の家長であり、航の祖父である宗次郎だった。
宗次郎は、島でも有名な頑固者の漁師だ。古びた作務衣をまとい、眼光だけは若者のように鋭い。彼は航の前にどっかと座ると、湯気の立つ鯛飯を一瞥して言った。
「航、飯を食う時は背筋を伸ばせ。お前の村上水軍の血が泣くぞ」
「じいちゃん……村上水軍の血って、ただの村上だろ」
航が自嘲気味に笑うと、宗次郎は鼻で笑った。
「馬鹿を言え。村上という名が、この海でどれほどの重みを持っていたか。お前はまだ、自分の本当の価値をこれっぽっちも分かっとらん」
窓の外では、瀬戸内の海が鏡のように静まり返っていた。
「凪だ。今日はひどく静かだな」
父が呟く。
航は、久しぶりに聞いたその言葉を口の中で繰り返した。
凪。
風が止まり、波が消える。まるで世界が止まったような不思議な時間。
航は一口、鯛飯を口に運んだ。都会で食べていたものとは違う、力強い魚の味がした。
今夜は、久しぶりに深く眠れそうな気がした。




