第5話:俺の異世界生活(セカンドライフ)
蛍光灯が最期の断末魔のように激しく明滅し、パチンと弾ける音と共に、世界が深い闇に包まれました。
ガラガラと回っていた乾燥機の音が、急激に遠ざかっていく。
あかりの、温かくて少し湿った手の感触が、指先から砂のようにサラサラと零れ落ちていきました。
「あかりッ……!」
俺が伸ばした手は、虚空を掴みました。
次に目を開けた時、俺は泥濘の中に膝をついていました。
頬を打つのは、冷たい雨ではありません。夜明けを告げる、異世界の湿った朝露でした。
「……タクヤ様! タクヤ様ではないか!」
遠くから、鉄錆の匂いをさせたカイルたちの呼笛が聞こえる。松明の火が、森の木々を赤く染めて近づいてくる。
俺がいたはずの「コインランドリー・スカイブルー」は、影も形もありませんでした。そこにあるのは、苔むした古い石造りの廃屋。崩れた壁には、日本語の看板どころか、文字一つ刻まれてはいませんでした。
(……夢、だったのか)
俺は自嘲気味に笑おうとしました。
王女を守る騎士が、任務の最中に元カノとラーメンを啜る夢を見るなんて……
だが、俺の掌には、ずっしりとした重みが残っていました。
あかりが渡してくれた、古びたスマホケース。
それは魔法のアイテムでも、異世界の秘宝でもない。
プラスチックの角が少し欠けた、どこにでもある現代日本の工業製品でした。
「……開けるな、って言われたよな。浦島太郎になるって」
でもね、あかり。俺はもう、十分に「浦島太郎」なんだよ。
三年も、お前のいない世界で白髪になりそうなほど寂しい夜を過ごしてきたんだ。
俺は震える指で、その「玉手箱」のカバーをめくりました。
中には、写真なんて入っていませんでした。
代わりに、丁寧に折り畳まれた一枚のメモ。
それは、あかりがさっきのランドリーで、備え付けのチラシの裏に急いで書いたであろう、殴り書きのメッセージでした。
『拓也。あの夜、言えなかったこと。
私の婚約者、乾燥機マニアじゃないの。……嘘ついちゃった。
本当はね、ラーメン屋の店主さんなの。
あんたが教えてくれた、あの隠し味の味噌。再現してあげたら、惚れられちゃった。
あんたの夢、私が現代で叶えてるよ。
だから、あんたも異世界で、ちゃんとかっこいい騎士様でいてね。
……またいつか、別の雨の日に。美味しいラーメン、作ってあげるから』
「…………ははっ。あいつ、最後までツッコミどころ満載じゃねぇか」
俺はメモを胸に押し当て、声を上げて泣きました。
悲しいからじゃない。
三年間、ずっと自分だけが取り残されていると思っていたけれど、あかりもまた、俺との思い出を「今の人生」の糧にして生きてくれていた。そのことが、たまらなく嬉しかった。
立ち上がると、甲冑が朝陽を浴びてキラキラと輝きました。
不思議なもんです。
あんなに重かった鉄の塊が、今は羽のように軽い。
俺の着ているシャツからは、泥の匂いに混じって、あのかすかな「フローラルな柔軟剤の香り」が漂っていました。
「タクヤ! 無事だったか! どこへ消えていたんだ!」
駆け寄ってきたカイルが、俺の肩を強く叩きました。
「……あぁ、悪い。ちょっと竜宮城まで、洗濯に行ってたんだ」
「竜宮……? 洗濯? 何を言っている。……お前、なんだか顔つきが変わったな。……吹っ切れたような、いい顔だ」
俺は腰の剣を正し、真っ直ぐに前を見据えました。
地平線の先には、黄金のスープの海はない。
けれど、この世界を守る先に、いつかまたあかりと出会える「雨の日」が繋がっていると、今は信じられる。
「カイル。帰ったら、王女様に報告だ。……ついでに、厨房の連中に新しいメニューを提案してやるよ。……『タクヤ特製・魔物の骨の味噌煮込み麺』だ」
「……なんだそれは。不気味だが、お前が言うなら美味そうだな」
俺たちは、光り輝く王都へと馬を走らせました。
背中のスマホケースは、もう重い過去じゃない。
俺たちが、それぞれの場所で「今」を精一杯生きるための、お守りだ。
欲の皮を突っ張らせて過去を追うのも人生。
汚れを洗い流して、真っ白なシャツで明日へ踏み出すのも人生。
どうやら、俺の異世界生活の「本番」は、これから始まるようです。




