第3話:竜宮城の乾燥機
「……婚約? 誰と? どんな人?」
俺の声は、まるで古びた換気扇みたいに掠れていました。
あかりはうつむいて、少しだけ指の節が太くなった左手をさすりました。そこには、結婚指輪をはめるための「予約席」みたいな、かすかな跡が見えました。
「会社の先輩。……潔癖症で、毎日ハンカチを三枚持ち歩くような人。洗濯物の干し方にうるさくてね、靴下は必ずつま先を上にして干せって怒るのよ。……拓也みたいに、脱ぎっぱなしの靴下を丸めて放置する人とは、正反対」
「……へぇ。そりゃ、随分と立派な旦那さん候補だな」
俺の心の中に、魔王を討伐する時よりもどす黒い嫉妬が渦巻きました。
俺が異世界で血に塗れた魔物の角をへし折っていた三年間、彼女は現代の日本で「靴下の干し方」で痴話喧嘩をしていた。……この差、どう埋めりゃいいんですかね。
「でもね、この店に入った瞬間、急に全部わかったの。ここ、普通のコインランドリーじゃないみたい」
あかりが窓の外を指差しました。
叩きつけるような雨の向こう側。そこには、俺がさっきまでいた「中世ヨーロッパ風の石造りの街並み」と、ビルが立ち並ぶ「現代日本の夜景」が、まるで二重露光の写真みたいに重なって見えました。
「ここ、竜宮城なのよ。……雨が降っている間だけ、死んだ人間が前世の記憶を取り戻して、時間の流れが狂う場所。外の世界では、一時間が三年分に相当するらしいわ。……浦島太郎の話、覚えてる? 乙姫様に歓迎されて、楽しく遊んで、お土産に玉手箱をもらって……」
「……地上に戻ったら、何百年も経ってたって話か」
ガラガラ……ガラガラ……。
乾燥機の音が、まるで死神の足音みたいに規則正しく響く。
俺はこの三年間、彼女を想って剣を振るい続けた。だが、このランドリーで過ごす数十分が、彼女が生きる現代では「数ヶ月」や「数年」を飲み込んでしまうかもしれない。
「別れる前の喧嘩、覚えてる?」
あかりが唐突に切り出しました。
「あの時、私、『もう待てない』って叫んだでしょ。……あれ、本当は結婚を急かしたかったわけじゃないの。ただ、拓也がいつも仕事の愚痴ばっかりで、私のことを見てくれないのが怖かっただけ。……寂しかったのよ、バカ」
「……俺も、怖かったんだ。『結婚なんてまだ早い』って言ったのは、お前を不幸にしたくなかったからだ。……給料も安くて、将来なんて真っ暗で。……でも、結局、一番不幸にしたのは、あの夜に俺がハンドルを切るのを遅らせたことだった」
俺たちは、三年前の「汚れ」を、今さらになってコインランドリーで洗い流そうとしている。
洗剤の泡にまみれた、古くて、苦い、愛の記憶。
あかりが、カバンの中から古びたスマホケースを取り出しました。
「これ、私にとっての『玉手箱』。……拓也とのツーショット写真が入ってるの。今の婚約者には、絶対に見せられない、私の秘密」
「……開けないのか?」
「ダメよ。開けたら、きっと白髪になっちゃう。……戻った世界が、もう元通りじゃなくなっちゃうから」
雨の音が、少しずつ、けれど確実に弱まっていくのが分かりました。
乾燥機のタイマーが、残り「十分」を告げる、無機質な電子音を響かせます。
「……一緒に、ここに残ろうか」
俺は、彼女の細い指を握りしめました。
「異世界でも現代でもない、この狭間でずっと。……雨が止まない限り、ここにいられるんだろ?」
あかりは、悲しそうに、けれど慈しむような笑顔で首を振りました。
「……ダメだよ、拓也。あんたには、王女様を守る仕事があるでしょ? 私には、明日、会社に提出しなきゃいけない企画書がある。……三年間、私たちがそれぞれ積み上げてきた『今』を、捨てちゃいけないのよ。……私たちは、もう、あの日の二人じゃないんだから」
蛍光灯がチカチカと点滅し、俺の甲冑が不気味な光を跳ね返しました。
お後がよろしいようで。……いや、よろしくない。
この乾燥機が止まるまでに、俺たちは「さよなら」の代わりに、何を洗濯機に放り込めばいいんでしょうか。




