『ペ』
これから根雪になるだろう淡雪が、柔らかく草地を覆っていた。
白い地面の上に、鮮やかな赤い点々が続いている。赤い色は、表面だけでなく雪の奥へも染み込み、奇妙な規則性で並んでいた。
本来なら、誰かが歩けば足跡が残るはずだ。けれど、足跡自体はなかった。赤い跡だけが、冷え切った地面に刻印されたみたいに並んでいた。風は弱く、雪面はなめらかで、外部から触れられた形跡が見当たらない。しかし、赤はそこにあった。
私は、息を吸い込んだ。冷気が喉の奥へ刺さり、胸の奥が小さく痛んだ。夢のはずなのに、匂いまである。濡れた鉄と、薄い血の匂い、それと雪に閉じ込められた水分の匂いだった。
不思議に思って、赤い点の先に向かって歩を進めた。靴底が雪を踏み沈めるたび、湿った感触が足裏に伝わった。雪は柔らかいのに、どこか粘性を帯びているように思えた。沈む音が遅れて聞こえた。
歩く先には、子供が立っていた。白い帽子を目深にかぶり、黄色いマフラーを首に巻いていた。制服のスカートのプリーツが、かすかな風に揺れていた。夕暮れの光が薄く、顔の影が深かった。なのに輪郭だけは妙にはっきりしていて、目の位置だけが暗く見えた。
その子の手の中で、刃が朱色に光った。刃物は小さく、金属の肌が冷えた光を返していた。刃先の角度がわずかに動き、光が滑った。赤い点と同じ色が刃に宿り、夕焼けの色なのか、別の色なのか区別がつかなかった。
私は、なぜか理解してしまった。理解してしまうことが、いちばん恐ろしかった。
――私は、これからこの赤い跡を付けていくのだ。
心臓が、強く打った。息が浅くなり、胸郭が固くなる。逃げようと思うのに、足は動いてゆく。赤い点は、私を誘導する線みたいに続いている。私は、振り向いた。
しかし、赤い点は消えていた。そこに残っていたのは、湿った雪に刻まれた私自身の足跡だけだった。足跡は新しく、縁が溶け、内部に水が溜まっている。水面が、私の呼吸に合わせてかすかに震えた。
そこで、目が覚めた。
***
目を開けた瞬間、薄い光がカーテン越しに差し込み、部屋の中の埃が細い線になって見えた。冷たい空気が肌の上をすべり、寝汗の湿り気が一気に冷えていく。パジャマの脇の下が濡れていて、嫌な匂いが鼻の奥に残っていた。
私は、布団の中で身じろぎした。シーツが肌に貼りつき、剥がすときに小さな音がした。心臓の鼓動は、まだ速かった。夢の中で見た赤い点が、まぶたの裏に貼りついたまま離れなかった。
家の中は静かで、冷蔵庫の唸りと、時計の針の音だけが聞こえた。
そうだ、今日は、仮病を使って学校を休んでいたのだ。母がいるので布団に横たわっているふりを続けていたが、いつの間にか、本当に眠ってしまったらしい。夜眠れなくなるかもなあ、と思ったとき、携帯電話が震えた。
布団の中で、手を伸ばした。画面が点灯し、白い光が暗い部屋の隅を、一瞬照らした。
『早く来い。場所は――』
指先が、固くなる。画面の文字が、現実のものとして目に入った瞬間、胸がひゅっと縮んだ。
『――四時までに来ないと、〈ウニ〉を壊す』
時計を見る。十五分しかない。母は、まだパートから戻っていない時間だ。
私は、布団を跳ね上げ、着替えた。制服のシャツのボタンがうまく留まらず、爪が当たって小さく痛んだ。
机の引き出しを開ける。すると、奥の暗がりに隠したものがあった。指先がそれを探り当てると、金属のひんやりした感触を感じた。
ナイフだ。持ち上げると、細かな文様が彫られているのが分かった。手に持ったままにする訳にはいかないから、ポケットに押し込んだ。すると、布がわずかに膨らみ、腿に当たった。
何も感じないように努力してリビングに行くと、のテーブルに食事が置かれていた。湯気は、もうほとんどない。私は目を逸らし、玄関へ向かった。扉を開けた瞬間、冷気が頬に貼りつき、鼻の奥が痛んだ。曇り空から、水分の多い雪がぼたぼたと落ちてくる。雪は、粉ではなく、濡れた塊だ。肩に落ちて溶け、冷たい筋が走った。
待ち合わせの空き地は、家のすぐ近くだ。近いはずなのに、そこへ向かう数分が長く感じられた。
足元の雪は薄く積もり始めていた。靴底が沈み、湿った音がする。私は、息を整えようとしたが、呼吸が浅いまま戻らなかった。
夢で見た景色に似ている、と思った。そう、似ているというだけで、喉の奥に何かを押し込まれたような気分になった。
***
空き地に入ると、視界が少し開けた。住宅の影が薄く伸び、雪面はまだ踏み荒らされていない。そこに、彼女が立っていた。
私と同じ顔、同じ骨格、同じ目の形の人物だった。
鏡で見るのと同じなのに、鏡の向こう側ではない。距離があるのに、視線が近かった。
彼女は、制服を着ていた。黄色いマフラーの上に溶けた雫が玉になっていて、光を反射していた。雫が落ちそうで落ちない。まるで、彼女の周囲だけ、時間が止まっているみたいだ、と思った。
私は、口を開いた。声が自分のものだと分かるまで、少し遅れた。
「今日は、どうだったの?」
彼女は、答えなかった。口元は動かず、表情も変わらない。ただ、腕をゆっくり伸ばし、手を差しだした。掌の向きが、要求の形をしている。
「約束、忘れていないな?」
掠れた声だった。いや、私と同じ声のはずなのに、喉の奥に砂が混じったみたいな音だ。 私は、頷こうとして、うまく頷けなかった。背筋に冷たい線が走った。
「も、もちろん」
言葉だけが、先にでた。私は、ポケットを指さして、笑顔を作ろうとしたが、頬が引きつった。
彼女の目は、揺れなかった。瞬きの回数も少なかった。まるで、観察しているだけの機械みたいだ、と思った。
そして、彼女は、無表情のまま、小さく頷いた――その頷きが、合図だった。
私は、手を動かし、ポケットからナイフを取り出した。金属が空気に触れ、冷たい光が刃に浮かぶ。柄の文様が指に当たり、ざらりとした感触が残る。
右手で握る。左手に当てるふりをする。視線を左手に向けさせる。私は、そういう動作を自然にやってしまった。やってしまったことが怖い。自分が自分じゃないみたいだ。
次の瞬間、私は進路を変えた。力を込めて、彼女の腹に押し込んだ。
布地が裂ける音がした。刃が中へ入っていく抵抗があり、すぐに抵抗がふっと抜けた。筋を断つ感触が、手首の奥まで伝わった。
彼女の目が、驚愕に見開かれる。けれど声は出ない。口も開かない。血が出るはずの場所から、液体がどくどくと流れ出る気配もない。私は、その箇所を見ようとして、見たくなくて、反射的に目を閉じた。
背を向けた。足が勝手に動き、雪を蹴って走り出した。靴底が雪を跳ね上げ、濡れた冷たいものが脛に当たる。耳の奥で、自分の呼吸音がうるさく聞こえた。
***
(吉田くん、吉田くん、吉田くん……)
心の中で、名前を繰り返す。繰り返すことで、今やっていることが現実じゃないように錯覚できる。けれど、足は止まらない。溶けた雪が制服に染み込み、背中が重くなった。
どれくらい走ったのか分からない。気づくと、町外れの公園にいた。遊具が雪を被り、金属の部分が暗い光を返していた。ベンチの表面が白くなっていた。雪は、いつの間にか止み、空の端に夕焼けが残っていた。
私は、立ち止まり、肩で呼吸した。制服は、ぐっしょりと濡れていた。袖口が手首に貼りつき、寒さが身体の芯まで届いた。風邪を引く、という考えが一瞬、頭をよぎったが、それどころではないと、首を振った。
見ると、積もったばかりの雪の上に伸びる影は、妙にのっぺりしていた。現実の影なのに、紙の上に描いた影みたいで、地面の感触と合っていなかった。私は、自分の足元を見た。足跡はあった。そこだけが現実の証拠に見えた。
歩き出すと、空き地の隅にある赤い点が目に入った。公園のはずなのに、赤い点があった。真っさらな白い雪の上に、点は奥まで続いていた。夢の中の赤い点と同じ――現実の中に、夢が差し込んできたみたいだと思った。
私は、転びそうになり、声も出せずに背を向けた。
そこに、彼女がいた。
彼女は、私が刺したはずのナイフを手に持っていた。刃は、きれいなままに見える。腹の破れも、遠目にははっきりしない。私は、一瞬声が出なかった。唾を飲み込み、喉が痛んだ。しかし、自然に口が開いていた。
「早く、ペ星に帰ってよ! 今すぐ!」
そう叫んだはずなのに、声が乾いていた。
彼女は無表情に私を見つめ、小首を振った。ナイフを制服のポケットに入れる動作が、やけに丁寧だった。
そして、もう一方のポケットから、水色に光る透明で小さなキューブを取りだした。彼女は、それを手のひらに載せて、私に見せる。キューブの中では、小さな文字のような図形が入れ替わり立ち替わり立体的に流れている。光の揺れ方が、映像みたいに滑らかで、まるで現実感がなかった。
私は、その光に目を奪われた。目を離すと怖いから、見ているふりをした。
彼女は、無言で、少し悲しそうに見える表情を作った。そう、表情を作った、という感じがした。彼女は、次の瞬間、ぐしゃりとキューブを潰した。透明な外殻が歪み、内部の光が一気に遠ざかる。
そして、キューブから光が消えた。
私は悲鳴を上げたつもりだったが、掠れた息が漏れただけだった。胸が痛い。胃が引きつる。唇が震えた。
「約束だ」
彼女は、無慈悲に告げた。その声は掠れていたものの、冷たく明瞭だった。
足下が崩れ落ちるような感覚がした。地面が割れるわけではないのに、身体の支えが消えた。私は膝をつき、雪が掌に沈んだ。
冷たすぎて、感覚が遅れて頭に届くような気がした。
その瞬間、頭の中に、二日間の出来事が雪崩みたいに流れ込んだ。
吉田君が車に撥ねられた瞬間……私を庇うように前へ出た背中……鈍い音……道路に落ちた鞄……私の視界が揺れ、声が遅れて出たこと……救急車のサイレン……担架の金属の光……病院の白い廊下の匂い。
ICUで横たわる吉田君は、呼吸器の管に繋がれ、身体が細い線で囲われていた。心電図の音が規則的に鳴り続けていた。私は、それを聞きながら、何もできない自分の手を見つめた。
家に戻って、冬空の星に祈った。祈るという行為が、現実の力になるとは思っていなかった。ただ、何かしないと壊れそうだった。
そのとき、突然現れたのが、〈彼〉だった。
窓の外の吹雪が白く光ったと思った瞬間、メタルハライド灯の明かりのような荒々しく光る何かが部屋を照らし、部屋の中に入り込んだ。吹雪の粒が室内に舞い込んだように見えた。冷気が一瞬で濃くなり、肌が粟立った。
それは、私にまとわりついた。衣服の上からでも分かる圧迫感があり、音のない接触があった。次の瞬間、人差し指の先に小さな痛みを感じた。針で刺されたような痛みだった。
それと同時に、光が立体的な形状を取り始めた。輪郭ができ、密度が増し、私の目の前で「形」になっていった。
次の瞬間、部屋の中に、裸の私とそっくり同じ姿が立っていた。肌の白さ、髪の長さ、骨の形。違うのは、目の奥の光が、私と噛み合わないことだけだ。視線が合うと、こちらの目の奥を覗かれるような気がした。
その存在は、口を開いて、言葉を発した。
『……わたしは、ペ星のマと言う。地球を見学しに来た。二自転周期、滞在する間、お前の願いを一つ、可能な限り、叶えてやろう』
言葉は日本語なのに、どこか滑っていた。音の切れ目が妙に正確で、呼吸の間がない。これは、人の声のリズムではないと感じた。
『わたしは、二日間、お前達の学校を見る。その後、お前は、このナイフでもう一度お前を傷つけ、血を一滴、わたしに与えるのだ。血が、この姿を解除する鍵になっている。さあ、望みを言え』
ペ星人は、どこからか金属の尖ったナイフを取り出し、私に渡した。ナイフの柄の文様は、今ポケットから出したものと同じだった。それを受け取った瞬間、指先が冷えて、骨の中まで硬くなった。見ると、うっすらと血が滲んでいた。
私は、驚愕で動転しながらも、病院へ案内した。現実を見ているのに、現実じゃない感じがした。病院の照明はいつも通り白く、床は磨かれているのに、足元だけが少し浮いているような感覚があった。
『この〈ウニ〉が、個体の生命活動を維持する』
ペ星人は、水色のキューブをかざした。キューブの内部で図形がうごめき、光が濃淡を変えた。
……次の日、吉田君は目を覚ました。
その奇跡が、私を縛ったのだ――その代償が、今日の空き地へ続いていた。
***
私は、膝をつき、目を閉じた。首を左右に振る。しかい、雪の冷たさが染みこんだ身体が上手く動かない。
しかし、彼女は、近づいてきた。足音はしないのに距離が縮む。腕が回り、私の身体が抱きしめられた。衣服越しの接触がある。体温が伝わってくるのに、どこか薄い。温かいのに、空洞みたいだ。
薬指に痛みを感じた。痛みは鋭く、短く、点のようだった。私は、反射的に指を引こうとしたが、指が動かなかった。
次の瞬間、彼女の気配が消えた。
『地球人の、若く激しい、感情について、学ばせてもらった』
音声は、上から聞こえた。
私は、目を開けた。空に上る金色の欠片のようなものが、視線の片隅に入った。欠片は吹雪のように舞い上がり、散り、細かく分かれ、やがて夜の色に溶けていった。
立ち上がろうとしたら、足がふらついた。雪面に、血がぽつぽつ落ちている。薬指から滲んだ血だ。血は、雪に吸い取られ、淡い色が広がった。夢の赤い点みたいだと思った。
その後、どうやって家に戻りついたのか分からない。玄関の鍵を回した感覚も曖昧だ。ただ、歩くたびに靴底が湿った雪を踏み、血の点が増えていった記憶がある。廊下の暗さ、部屋の灯り、自分の呼吸がうるさかったことも。
夜、布団に潜り込んでも、眠りは浅かった。夢の赤い点が、現実の赤い点と重なっていく。私は、指を握りしめ、薬指の痛みを確かめた。皮膚の下に、何かが残っている感じがした。なぜか痛みはなかったが、異物感が消えなかった。
***
翌朝、母に気遣われながら学校に行った。
根雪になるかと思った雪は、日陰に残っているだけだった。曇り空は薄く、教室はどことなく活気がなかった。椅子の軋み、黒板の粉、誰かの咳の音がした。いつもと同じ音が、今日は遠い気がした。
教室に入った直後、母から携帯に電話があった。着信の振動が掌に伝わった瞬間、身体が固まった。私は、友人と言葉を交わす余裕もなく、荷物を掴んで教室を飛び出した。
外の空気は、冷たかった。タクシーを拾い、病院へ向かった。窓の外を雪の残りが流れていく。街の景色は現実のはずなのに、ガラス越しだと映画のセットみたいだと思った。私は、自分の呼吸の音を聞きながら、薬指を何度も擦った。
看護婦さんを急かして、一般病室に入った。扉を開けると、消毒液と布団の匂いがした。
吉田君は、吉田君の母親と何か話していた。私を見ると驚いた表情になり、次に、にっこりと微笑んだ。その笑顔が、ここ何日かで、いちばん現実だと思った。
「亜希子ちゃんじゃないか、学校は、いいの?」
声は、いつも通りで、あまりにも普通だった。
「莫迦!」
私は、そう言いながら、喉の奥が熱くなる。涙が出そうになって、慌てて瞬きをした。
「いやさ、不思議なことに、すっかり治ったみたいなんだ。検査が終わったら、今日中に退院できるみたいだよ」
「本当?」
頭に包帯を巻いた彼は、いつもの笑顔で頷いた。その動作が眩しく見えた。
その瞬間、病室のどこからか、少し掠れた私の声が聞こえた。
「……すでに、〈ウニ〉によるナノ治療は終わっている」
病室の照明が、ほんのわずかに瞬いた気がした。私は、後ずさって、息を止めた。
声の方向は分からない。病室の隅も、天井も、カーテンの影も、全部が急に薄暗く見えた。吉田君の母親は首を傾げる。吉田君は、何も聞こえなかったように笑っている。
私だけが、その声を聞いた。
私は、知らないうちに、指先で薬指の傷跡をなぞっていた。皮膚の上には、何の傷も残っていなかった。しかし、なぞるたびに、遠くで水色の光が消える感覚が蘇った。
窓の外には、曇り空が広がっており、日陰の雪が、薄く残っていた。
白いはずの景色の中で、私は夢の赤い点を思いだした。
吉田君の笑顔を見つめながら、私はふと考えた。
彼の『見学』は、終わったのだろうか――『学び』は、終わったのだろうか、と。
(了)
※「いつものあれ」様のコメントで、色々、プロンプトを調整したら上手くいったんで、ゆきのまち幻想文学賞に投稿(して落ちた)シリーズの短編を少し伸ばした『ペ』投稿します。大感謝です→「いつものあれ」様。




