第72話 雪の日は、帰らない人が増える
雪は、音を吸う。
深夜二時を少し回った頃、店の外は白く滲んでいた。
ガラス越しに見える駐車場の街灯が、普段よりぼんやりしている。
「……降ってますね」
雨露は、レジ横のモニターから目を離さずに言った。
確認ではなく、事実の報告だった。
「え、ほんとだ!積もりそう?」
安藤が窓に近づき、手のひらをガラスに当てる。
その指先が、すぐに白く霞んだ。
「……帰れなくなる人、増えますよね」
そう言ったのは宮間だった。
いつもの端の席で、コーヒーを冷ましながら、どこか安堵したような顔をしている。
「それ、嬉しそうに言うことじゃないですよ」
雨露が淡々と返すと、宮間は慌てて首を振った。
「い、いえ、その……その方が……安全、かなって……」
「家に帰れないのが安全、って発想、なかなかだよね」
文月は紙ナプキンを折りながら言った。
今日は鶴でもなく、立方体でもない。
何かの途中で止まった、よく分からない形。
「雪ってさ、人の“決断”を鈍らせるんだよ。
今帰るか、もう少しいるか。その境目を全部曖昧にする」
「先生、それっぽいこと言ってません?」
菅原がドリンクバーから戻ってくる。
手にはココア。完全に私物だ。
「だってほら、“今日は無理しなくていいか”って理由が、空から降ってくるんだもの」
「それ、締切にも使えます?」
雨露が聞くと、文月は即座に視線を逸らした。
「それは別問題」
入口のベルが鳴った。
雪を払うようにして入ってきたのはモモコだった。
コートの肩に、白い粒がいくつも残っている。
「もう! タクシー捕まんないし、ヒール濡れるし最悪!」
そう言いながら、迷いなく奥の席に向かう。
「でもね」
椅子に腰を下ろし、ふう、と一息ついてから、
「こういう日は、帰らない方が正解なのよ」
誰も、すぐには返事をしなかった。
店内には、食器の触れる音と、換気扇の低い唸りだけがある。
「……正解、って何です?」
雨露が聞いた。
モモコは少し考えてから、笑う。
「決めなくていいってこと」
その言葉に、宮間が小さく頷いた。
「帰る、帰らない、生きる、生きない……
雪の日って、全部“保留”にできる気がして」
「なんか、重たいすっね」
菅原が言うと、
「雪だからね!」
モモコが即答した。
外では、雪が静かに降り続いている。
誰かを足止めするためでも、誰かを迎えるためでもなく、ただ均等に。
雨露は、カウンター越しに店内を見渡した。
誰も急いでいない。
誰も席を立たない。
「……長居される分には、構いません」
そう言うと、文月が少しだけ笑った。
「ほら。許可が出た」
「依存はしないでください」
「しないしない。今日は“滞在”」
雪の日は、帰らない人が増える。
それは、逃げでも、停滞でもなく。
ほんの少し、立ち止まるための、言い訳だった。




