第71話 初売りの余り香
深夜二時。
厨房と客席の境目に、説明しづらい匂いが漂っていた。
出汁の名残と、どこか甘い香り。
そこに、明らかに日本の正月とは別ルートで来たスパイスが混ざっている。
雨露は、呼び鈴の横で一度だけ鼻を鳴らした。
「……サモンさん」
「はい」
サモンは満足そうな顔で、まかない用の鍋を覗き込んでいる。
「これ、正月料理リメイクです」
「どのあたりが正月でしょうか」
「お餅、気持ちだけ入ってる」
「気持ち」
雨露はそれ以上深追いしなかった。
この時間帯に“気持ち”という単位を持ち出すと、話が長くなる。
カウンター席では安藤が、興味津々で身を乗り出している。
「いい匂いします!
なんか……落ち着くような、落ち着かないような」
「正月明けの人、だいたいこの顔」
サモンはそう言って笑った。
少し離れた席で、マリエがぴくりと反応する。
「……来てるわね」
「何がでしょうか」
雨露が聞くと、マリエは水晶玉をくるりと回した。
「“切り替え損ねた運命”の匂いよ。 初売りの袋、まだ捨ててない人の気配」
安藤は無意識に、自分の足元を見た。
「……昨日まで持ってました」
「でしょうね」
そのとき、宮間がそっと口を開いた。
「僕……こういう中途半端な匂い、嫌いじゃないです」
全員の視線が集まる。
「正月が終わったって言われても、急に通常営業の気持ちになれなくて……でも、ずっと正月のままでも困るじゃないですか」
サモンは、うんうんと大きく頷いた。
「だから、混ぜた」
「混ぜた結果がこれですか」
雨露は鍋を見た。
「境界線が曖昧な味」
「人生、だいたいそう」
「業務外の哲学は厨房に持ち込まないでください」
だが、その直後。
入口のドアベルが鳴り、
鳩山店長が、珍しく深夜の店内に姿を見せた。
「……面白い匂いですね」
それだけ言って、店内を一周見渡す。
誰もが少しだけ背筋を伸ばす中、
店長は穏やかに笑った。
「正月明けは、こういう空気が残りますから」
そして、何も指示せずに帰っていった。
沈黙。
安藤が小さく拍手した。
「なんか……許された感じしますね」
宮間も、ほっと息を吐く。
「今年も……なんとか生き延びられそうです」
雨露は、換気を少しだけ強めながら言った。
「当店は、通常営業です」
「はい」
「ただし」
一瞬だけ、言葉を切る。
「正月の余り香が抜けるまで、少々お時間をいただきます」
サモンは嬉しそうに笑い、鍋の火を弱めた。
深夜二時。
正月はもう終わった。
それでも、匂いだけは、
しばらくこの店に残っているようだった。




