第70話 正月明けの編集者は速い
深夜二時。
ファミレスの照明は、正月が終わったことを特に惜しんでもいない明るさで、均一に店内を照らしていた。
飾り気のない通常営業用の光だ。
文月は、その光の下で、やけに姿勢よく座っていた。
「ねえ雨露くん」
呼ばれて、雨露は伝票から視線を上げる。
「はい」
「正月って、終わると急に攻撃的じゃない?」
「具体的にどのあたりがでしょうか」
「世の中全体がさ。“はい切り替え、はい現実”って殴ってくる感じ」
「社会復帰、と呼ばれる現象ですね」
雨露は淡々と答え、ドリンクバーの残量を確認する。
文月はコーヒーを一口飲み、深く頷いた。
「そう。それ。私はまだ“概念としての正月”の中にいたいだけなのに」
「締切は概念ではありません」
「ひどい」
その瞬間だった。
入口のドアベルが、やけに澄んだ音を立てて鳴った。
深夜には少しだけ大きく聞こえる、軽い金属音。
パンツスーツ。
無駄のない歩幅。
迷いのない視線。
笹原だった。
文月は一瞬で表情を消し、反射的に身を低くする。
「……来ました」
「いらっしゃいませ」
雨露の声は、いつも通り落ち着いていた。
笹原は軽く会釈し、文月の席を一瞥する。
「先生」
「違います」
即答だった。
「私はただの一般客です」
「原稿を落としている一般客はいません」
笹原は一歩踏み出す。
その瞬間、文月が動いた。
椅子を引く音も立てず、横にあった観葉植物の陰に滑り込む。
葉の隙間から、完璧に顔だけが隠れている。
「……見えませんね」
「見えてます」
雨露は即座に訂正した。
「全面的に」
笹原はため息をつく。
「先生、正月は終わりました」
「まだ初夢見てない」
「それは個人差です」
「しめ縄も片付けてない」
「それも個人差です」
文月は植物の陰から、少しだけ顔を出す。
「じゃあせめて、今日だけは“正月明けの余韻”として——」
「締切は三日前です」
沈黙。
文月は、ゆっくりと雨露の背後に回り込んだ。
完全に盾にする位置取りだ。
「雨露くん、ここは大人の対応を」
「業務の妨げにならない範囲でお願いします」
「冷たいねえ」
「いつも通りです」
笹原は腕時計を確認し、静かに言った。
「先生。逃げた分だけ、私の土下座が増えています」
「それは……社会問題だね」
「先生の問題です」
文月はしばらく黙り、やがて小さく笑った。
「正月ってさ、終わると“言い訳”が全部使えなくなるんだよ」
「はい」
「だから嫌いなんだ」
「ですが」
雨露は、カウンターの奥に伝票を置きながら言った。
「正月が終わっても、深夜は続いています」
文月は一瞬だけ目を見開き、ふっと力を抜いた。
「……じゃあ、原稿書くか」
笹原はその言葉を聞いて、ようやく肩の力を抜く。
「ありがとうございます、先生」
「その代わり」
文月は観念したように席へ戻りながら続けた。
「コーヒーはおかわりさせて」
「どうぞ」
雨露は淡々とカップを差し出す。
深夜二時。
正月は終わった。
締切も、現実も、確かにここにある。
それでも、この時間だけは、少しだけ逃げ場が残っているような気がしていた。




