第7話 ガパオライスとタイの侵食
このファミレスは、いつの間にかタイに侵食されていた。
最初はランチだけだった。
ガパオライス・ワンドリンク付き・デザート付き・千円。
個人経営のわりに攻めた内容だが、オーナーは「美味しいならいいじゃん」という思想の持ち主で、誰も止めなかった。
考案者は、タイ留学生で厨房担当のサモンだった。
「日本の人、辛いの苦手。でも、香りは好き。だから、ちょっとだけ、魂残す」
その「ちょっと」は、本人が気づかないうちにズレを積み重ねている。
それを知っているのは、いつも新作を出す前に試食し、審査する店員達だけだった。
ランチタイムの人気は爆発的で、いつしかこの店は「ガパオのファミレス」と呼ばれるようになった。
問題は、サモンが新作を研究したくなった夜だった。
深夜二時。
厨房から、明らかにファミレスではない匂いがしていた。
「……酸っぱくて、辛くて、異国ですね」
休憩中の雨露は、アイスコーヒーを飲みながら淡々と分析した。
「トムヤムの匂いですね。完全に」
「今日は試食会あるよ!」
サモンは嬉しそうに言った。
エプロンには見慣れない香草が付着している。
「そのまま出すと、私の好みになってしまう。だから止める人、必要」
「自覚はあるんですね」
「あるよ!」
暇をしていた文月が、興味深そうに近づいてきた。
「侵食とは、文化の融合だよ。美しい」
「美しいですが、原価とクレームも融合します」
雨露は一応、止める側だった。
そこへ、仕事終わりで半分死んでいる宮間が入店した。
「……今日も、生き延びました」
「宮間さんも参加しますか?」
「……看取られるなら、ここがいいので」
こうして、深夜の試食会が始まった。
最初はトムヤムクン。
見た目は、そこまで辛くなさそう。
「辛さ、日本人向け」
サモンはそう言って出した。
一口。
「……美味しい」
文月は真面目な顔で言った。
数秒後。
「……存在が、内側から問いかけてくる」
「辛いですね、それ」
宮間は震えながらスプーンを置いた。
「でも……美味しい……死ぬ前に食べられて良かった……」
「死なないでください」
雨露は水を差し出した。
次はパッタイ。
甘みと酸味のバランスが完璧だった。
「これ、ランチで出したら覇権取ります」
「本当?」
サモンは嬉しそうだった。
しかし三口目あたりから、じわじわと辛さが追いついてくる。
「遅れてくるタイプですね」
「人生みたいだね」
「先生、黙って食べてください」
最後はグリーンカレー。
色が、すでに強い。
「これは……危険では?」
「日本人向け」
サモンは自信満々だった。
一口。
沈黙。
数秒後、宮間が涙目で言った。
「……孤独死より、こっちの方が怖いかもしれません」
「でも、美味しいでしょ?」
「はい……美味しいです……」
文月は汗をかきながら、深く頷いた。
「これは、締切前の思考に似ている。逃げられない」
雨露は冷静にメモを取った。
「辛さ、全体的に二段階下げてください」
「了解!」
サモンは素直だった。
試食会は無事に終わった。
誰も倒れなかった。
厨房に戻るサモンを見送りながら、雨露は言った。
「文化の侵食は、管理が必要ですね」
「でも、楽しかった!」
文月は満足そうだった。
宮間は水を飲み干しながら、静かに思った。
――ここなら、辛くても、生きていられる。
深夜ファミレスは、今日も少しずつ、タイに侵食されている。
しかし、それは不思議と悪くない侵食だった。




