第68話 初詣のあと、うどんを食べただけ
正月三が日が過ぎたあたりの神社は、賑わいと疲労が同時に沈殿している。
晴れ着の人影は減り、代わりに厚手のコートを着込んだ大人たちが、どこか義務感のある顔で賽銭箱に硬貨を投げていた。
願いというより、年始のチェック項目を処理している動きに近い。
雨露はその列の端に並んでいた。
休日である。制服ではない。
それだけで、世界との距離がわずかにずれている感覚があった。
拝殿に近づくにつれ、鈴の音と、言語化されない願いの残骸が耳に入る。
――今年も無事に働けますように。
頭に浮かびかけたその文を、途中で消した。
神様にまで仕事の話を持ち込む必要はない。
そう結論づけた瞬間、後ろから声が飛んできた。
「奇遇だね。神社で会うと、だいたい碌なことにならない気がするんだけど」
振り向くと、文月がいた。
コートの前は開けっぱなし、マフラーは一応巻いているが装飾品の域を出ていない。
顔色は悪くない。
つまり締切は“まだ致命的ではない”。
「奇遇というより、行動範囲が狭いだけでは」
雨露は淡々と返した。
「それを言われると、私は深夜ファミレスの付喪神みたいになるね」
「否定しません」
二人はそのまま並び、列の流れに乗った。
拝殿の前に立つと、文月は急に神妙な顔になった。
鈴を鳴らし、手を合わせる動作がやけに丁寧だ。
雨露は横目でそれを見たが、特に感想は持たなかった。
参拝を終え、境内を離れる。
会話はなく、正月特有の空気だけが間を埋めていた。
「さて」
文月が足を止める。
「ここで解散すると、正月の意味が薄れる気がする」
「意味は元から薄いかと」
「空気の問題だよ」
雨露は一拍置いた。
「……うどん、行きますか」
「行こう」
なぜそうなったのか、双方説明できない。
正月の神社という場所は、人を論理から遠ざける。
参道を歩き始めてすぐ、視界の端が騒がしくなった。
モモコだった。
オカマ仲間を引き連れ、笑い声と香水と感情を周囲に撒き散らしている。
こちらに気づいた瞬間、モモコの目が輝いた。
「あらぁ!? 雨露くんじゃないのぉ!」
絡まれる前に、雨露は視線を逸らした。
「今日は捕まると長い」
文月が即座に判断する。
「同意します」
二人は何事もなかったかのように進路を変え、屋台の影に紛れた。
背後から恋愛談義と失恋の再演が聞こえるが、振り返らない。
数十メートル離れてから、文月が言った。
「正月からあのテンションは、神様も処理しきれないと思う」
「苦情は神社へ」
そのまま歩いていると、今度は別の人物が目に入った。
安藤だった。
家族連れで、両手には屋台飯。
焼きそばと、何か串に刺さったもの。
完全に塞がっている。
一瞬、目が合った。
安藤は口を開きかけ、しかし家族の会話に引き戻され、困ったように笑って小さく会釈だけして通り過ぎていった。
「声、かけなくて正解だったね」
文月が言う。
「業務外ですので」
「休日でも線引きが明確だ」
その会話を最後に、二人は参道脇の小さなうどん屋に入った。
湯気。
醤油の匂い。
正月らしさを最低限に削ぎ落とした空間。
向かい合って座り、ほぼ同時に箸を取る。
「正月に食べるうどんってさ」
文月が言う。
「人生を一回リセットしたふりをして、実際には何も変えない感じがして好きなんだ」
「それは誤魔化しでは」
「妥協とも言うね」
雨露は否定しなかった。
うどんは普通だった。
だからこそ、問題がなかった。
食べ終え、店を出る。
特に次の予定はない。
「じゃあ」
文月が言いかける。
「ええ」
それで終わるはずだったが、文月は少し考えて続けた。
「深夜じゃないファミレスって、存在意義あると思う?」
「あります」
「即答だね」
「業態ですので」
文月は笑い、手を振った。
雨露は会釈だけ返し、逆方向へ歩き出す。
正月の神社に、新しい願いは残っていない。
だが、今年もどうにか生き延びられそうな感触だけが、静かに残っていた。
それを言葉にする必要は、特になかった。




