第63話 それ、恋人ムーブですよね?
深夜二時四十分。
ファミレスの入口のドアベルは、零時を回って三回しか鳴っていない。
店内は静かだった。
静かすぎて、音が意味を持ち始める時間帯だ。
カウンター内で雨露が伝票を整理している。
その背後、ほとんど影のような距離に文月が立っていた。
「雨露くん」
「はい」
「今、人はどこまで近づくと“他人”じゃなくなると思う?」
「業務中ですので、その議論は簡潔にお願いいたします」
「安心して。結論は出ない」
「承知しております」
二人の距離は近い。
近いが、触れてはいない。
しかし、近すぎる。
文月は雨露の肩越しに、伝票を覗き込んでいる。
呼吸のリズムが、ほぼ重なっていた。
その様子を、客席から姫川が見ていた。
姫川はストローを噛みながら、目を細める。
「……え?」
一拍置いて、声が大きくなる。
「え?え!?ちょっと待ってください!!」
店内に、突然テンションの違う音が落ちた。
雨露が振り返る。
「どうされましたか」
「どうもこうもないです!! 距離!! 距離おかしくないですか!?」
文月は首を傾げた。
「そうかな」
「そうですよ!!背後霊みたいになってますよ今!!」
「安心して。私は害はない」
「害の話じゃない!!」
雨露は少し考えた後、淡々と言った。
「いつも通りですが」
姫川は固まった。
「……いつも?」
「はい」
「“いつも”って何ですか」
「先生は考え事をされる際、一定距離を保って背後に立たれます」
「それ、保ててないです!! ゼロ距離です!!」
文月は興味深そうに言う。
「君は距離に敏感だね」
「普通です!! 私が普通!!」
文月は雨露の後ろから少しだけ身を引いた。
「では、これくらい?」
「まだ近い!!」
「この辺?」
「恋人ムーブです!! 完全に!!」
その言葉に、店内の空気が一瞬止まった。
文月がゆっくり瞬きをする。
「……恋人」
「そこ引っかかるとこじゃないですからね!?」
雨露は視線を逸らした。
「誤解を招く表現はお控えください」
「誤解を生んでるのは状況です!!」
姫川は立ち上がり、二人の間に割って入る。
「なんでそんな自然なんですか!! そこ!!そこが一番ムカつくんです!!」
文月は少し考える。
「慣れ、かな」
「出た!! 慣れって何ですか!!慣れで人はそんな近くに立たない!!」
「立つ人もいる」
「いない!! 少なくとも私はいない!!」
雨露は冷静に言う。
「姫川さんの場合、近づき方に勢いがありますので」
「私が悪いみたいに言わないでください!!」
文月が穏やかに頷く。
「彼女は爆発力がある」
「爆発してません!!まだ!!」
雨露は姫川に向き直る。
「先生は、この距離で落ち着かれます」
「なんで!?」
「思考が散らからないそうです」
姫川は頭を抱えた。
「意味がわからない……なんでそれを許してるんですか……」
「危険がないためです」
「私より!?」
「はい」
即答だった。
姫川は膝から崩れ落ちそうになる。
「私、危険判定……」
文月は優しく言った。
「君は感情が豊かだ」
「言い方!!」
文月は再び、雨露の後ろに立つ。
今度はほんの少し距離を保って。
「この位置は?」
姫川は目を細める。
「……ギリギリ」
「合格?」
「不合格です!!」
雨露が淡々と伝票をまとめる。
「先生、そろそろ席に戻られては」
「そうだね」
文月は素直に席へ戻る。
姫川はその背中を睨みつけてから、雨露を見る。
「……私も、ああなったら許されます?」
「なりません」
「即答!!」
「被害が拡大しますので」
「差別!!」
文月が席から言う。
「彼女は勢いがあるからね」
「フォローになってない!!」
姫川はドリンクを一口飲み、深く息を吐いた。
「……ずるい」
「何がでしょう」
「雨露くんが、全部普通みたいな顔してるところです」
雨露は一瞬だけ言葉を探し、答える。
「深夜ですので」
「またそれ!!」
文月は楽しそうに笑った。
「深夜は、人の距離を壊す」
「壊さないでください!!」
ドアベルが、カラン、と鳴る。
誰かが入ってきた。
姫川は肩をすくめ、席に戻る。
「……意味わかんない夜」
雨露はいつも通り、客を迎える。
「いらっしゃいませ」
文月は、少しだけ距離を詰めたまま、静かに考え事を続けていた。
深夜ファミレスでは、
距離感の基準が、いつも少しだけ狂っている。
それを気にしているのは、
だいたい、姫川だけだった。




