第61話 赤い灰皿のある時間
深夜二時を少し回った頃。
ファミレスの店外、入口付近には、
場違いなくらい目立つ赤い灰皿が置かれている。
夜間はほとんど使われないくせに、
なぜかいつもきれいで、
入口の蛍光灯の光を反射して、妙に存在感があった。
休憩に入った雨露は、その横に立ち、
加熱式タバコを手にしていた。
メンソールの蒸気が、
吐息と区別のつかない白さで夜に溶けていく。
ガラス越しの店内は、騒がしい。
「だからそれは、“存在してない進捗”ってことになるんだよ」
文月の声だ。
「えっ、じゃあこれ……僕の今週って、なに……?」
宮間の弱々しい声が続く。
「え、でも白紙の書類にガムシロップ垂らしてたら、
進んでる感じはしますよね?」
安藤の、妙に前向きな相槌。
ガチャン、と外で何かが落ちる音。
その拍子に、マリエが
「今のは運命だわ」と言い出す気配まである。
雨露は何も言わず、煙を吐いた。
「……相変わらずですね」
声をかけてきたのは、スーツ姿の久世だった。
中を覗いたというより、
音と空気だけで察したらしい。
仕事終わりなのだろう。
ネクタイは外され、髪も少し崩れている。
それでも表情はいつも通り、余分な感情が抜け落ちた顔だ。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
互いに、それ以上の挨拶はない。
久世は雨露の隣に立ち、
ポケットから紙タバコを取り出す。
火をつける動作にも、無駄がない。
二人分の煙が、非常灯の下で交差する。
しばらく、音はなかった。
突然、店内から大きな声。
「孤独死って、予約できないんですか!?」
宮間だ。
「できたら誰も困らないよ」
文月が即答する。
「えっ、じゃあ今ここにいるの、結構奇跡じゃないですか?」
安藤が、なぜか感動している。
「今のは前兆よ」
マリエの声まで混じった。
「……今日は、いつもより賑やかですね」
久世は店内に目を向けたまま、短く息を吐いた。
「深夜ですから」
雨露はそれだけ答え、同じように吸い終える。
沈黙。
だが、気まずさはない。
「中、荒れてますよ」
「分かります」
「先生が哲学を始めると、収拾がつかなくなります」
「それでも、皆ここにいますよね」
雨露は一瞬だけ、久世を見る。
「…そうですね」
その時、入口のドアが内側から少し開いた。
安藤が顔を出す。
「あっ、雨露くん!
今、文月先生が“ストローは人生の比喩”って言い始めてて!」
「止めてください」
即答だった。
「えっ、どっちをですか?」
「全部です」
「ですよね! 分かりました!」
安藤は元気よく引っ込んだ。
再び、静寂。
久世が、わずかに口元を緩める。
「……大変ですね」
「慣れてます」
「逃げないんですか」
「逃げると、余計に増えますので」
久世は、納得したように頷いた。
その瞬間、
店内からガシャーンと音がして、
誰かが「それは予言!」と叫ぶ。
雨露は、ため息にもならない息を吐いた。
「行きますか」
「ええ」
二人は入口のドアを開け、光の中へ戻る。
ファミレスの中は、相変わらずカオスだった。
文月がストローを何本も並べ、
宮間がそれを見て真剣にメモを取り、
マリエが水晶玉を掲げ、
安藤が「写真撮ります?」と言っている。
「なんですか、この惨状は」
雨露の声で、空気が少しだけ締まる。
「……久世さんだ!」
宮間が小さくざわつく。
「いつものでいいですか?」
雨露が淡々と聞く。
「コーヒーを」
「かしこまりました」
そのやり取りだけで、場が少し落ち着いた。
久世はカウンターに座り、
ブラックコーヒーを受け取る。
「外、寒くなりましたね」
誰にともなく言うと、
文月が顔を上げた。
「寒さってさ、存在の確認だと思わない?」
「思いません」
雨露は即答する。
久世はコーヒーを一口飲み、
静かに微笑んだ。
深夜二時のファミレスは、
今日も通常運転だった。




