第6話 マッドサイエンティストとストロー
深夜二時。
シャッター商店街の奥に取り残されたようなファミレスは、今日もいつも通りの照明と、いつも以上に不安定な空気を漂わせていた。
カウンター席に座る文月は、今日は明らかに美形ではなかった。
髪は寝癖というより思考の迷走をそのまま形にしたような広がり方をしており、目の下には締切と哲学が殴り合った跡がくっきり残っている。
締切四十八時間前。この状態の文月は、小説家というより、マッドサイエンティストに近い。
「ねえ、安藤くん」
「はいっ」
安藤は明るく返事をしながら、内心で少し身構えた。この呼ばれ方のとき、だいたいろくなことが起きない。
「人はね、締切に追われると、美しさを失うと思わないか」
「えっと……私、テスト前はだいたい顔がむくみます!」
「似ている」
似ていない、と雨露は思ったが、顔には出さない。雨露は昨日の惨事を思い出し注意する。
「先生、今日は哲学実験は禁止です。昨日も紙ナプキンが犠牲になったので」
「実験じゃない。観察だよ」
文月の前には、すでにストロー、砂糖、紙ナプキンが整然と並べられている。
整然としているのが、逆に不安だった。
そこへ、仕事終わりの宮間が入ってきた。
ネクタイは緩み、肩は重力に完全に負けている。
「……今日、店内、平和ですか」
「今のところは」
雨露の返事は正確だった。
“今のところ”は。
「では始めよう」
文月はストローを一本、まっすぐ立てた。
「これは理性だ」
「……細すぎません?」
宮間が恐る恐る聞く。
「理性は、だいたい細い。特に締切前は」
次に、ストローを軽く折った。
「これは焦燥」
「先生、それは今ゴミになりました」
「いや、比喩だよ」
雨露は一歩前に出た。
「床に落としたら清掃が発生します。比喩は頭の中でお願いします」
安藤はなぜか感動していた。
「すごい……形があると、わかった気になります!」
「それが一番危険なんです(在庫が減る)」
雨露は淡々と釘を刺した。
その夜は、雨露の存在がストッパーとなり、文月の狂気はギリギリ“観察”で収まった。
翌日。
雨露は休みだった。
それだけで、店の空気は目に見えて緩んだ。
「今日は誰も止めないね」
文月は、完全に締切側の目をしていた。
「え、えっと……何か、ほどほどにしてくださいね?」
安藤は言ったが、自分でも効力がないとわかっていた。
「今日は、存在を再配置する」
テーブルの上には、伝票、紙ナプキン、ストロー、砂糖、そして安藤の私物のペン。
「それ私のです!」
「私物は最も哲学的だ」
「そうなんですか……?」
宮間は帰るタイミングを完全に失っていた。
「……今日、ここで死んだら、皆さんに看取られますね」
「それは光栄だよ」
「光栄にしないでください」
安藤が突っ込む。
文月は紙ナプキンを折り、広げ、また畳んだ。
「これは時間」
ぐしゃ。
「これは後悔」
安藤が勢いでストローを曲げた。
「じゃあこれ、希望!」
「希望は、だいたい自立しない」
「うわ……」
宮間は頭を抱えた。
誰も止めない。
誰も正気に引き戻さない。
文月はついに立ち上がり、観葉植物の陰に身を潜めた。
「締切が見えない……」
「マトモな客はいない。思想しかいない」
その時、店のドアが開いた。
入ってきたのは、パンツスーツの女性、笹原だった。
「……先生」
文月の肩が、目に見えて跳ねた。
「笹原くん、いや、今日は偶然だね」
「偶然じゃありません。」
笹原は静かに言った。
「納期…何日までか知ってますか?」
「今、実験中で――」
「先生、先生が逃げた分だけ、私が土下座する回数が増えるんです」
その声は穏やかだが、逃げ場はなかった。
文月は観念したように立ち上がった。
「……安藤くん、宮間くん。楽しかったよ」
「ほら、先生行きますよ。」
笹原はにこやかに、しかし確実に文月の腕を掴んだ。
そのまま、全速力で店外へ。
ドアが閉まると、嘘のように静かになった。
「……終わりましたね」
宮間が言った。
「うん……」
安藤は散らばったストローを見ながら、しみじみ思った。
「雨露くん、いない日って、こんなに大変なんだ……」
深夜ファミレスは、何事もなかったかのように営業を続けている。
ただ床に残ったストローだけが、締切前の狂気を静かに物語っていた。




