第54話 会話ゼロで三十分
ドアベルが鳴る。
その音だけが、店内に明確な「開始」を告げた。
雨露は顔を上げない。
久世は何も言わない。
二人は視線を交わし、ほんの一瞬、空気が重なった。
それだけだった。
雨露はカップを取り、ブラックコーヒーを注ぐ。
砂糖もミルクも添えず、久世の前に置く。
久世は頷かない。
礼も言わない。
ただ自然な動作でカップを引き寄せ、一口飲む。
それで終わりだった。
姫川はその一連の流れを、目を見開いて見ていた。
「……え?」
モモコがカウンター席に腰を下ろし、脚を組む。
「なに固まってんのよ」
「いや、今……注文……しました?」
「してないわよ」
「ですよね!? なのにコーヒー出ましたよね!?」
「出たわね」
姫川は久世を見る。
久世は無言でコーヒーを飲んでいる。
「久世さん、ブラックで合ってました?」
「……」
沈黙。
「え、あの、聞こえてます?」
「……」
雨露が淡々と口を挟む。
「合っていますので」
「なんで分かるんですか!?」
「いつもです」
モモコが頷く。
「いつもよ」
姫川は両手で頭を抱えた。
「“いつも”って何!?
会話ゼロで成立する“いつも”って何!?」
久世は二口目を飲む。
雨露は水を足す。
そのタイミングは完璧だった。
姫川は椅子から半分立ち上がる。
「待ってください!
今、二人で“水足す合図”とか出しました!?」
「出していません」
「じゃあなんで今!?」
「喉の動きから判断しました」
「職人!?」
モモコが笑う。
「この店、そういうとこあるから」
「いや“あるから”で済ませないでください!!」
姫川は時計を見る。
「……まだ五分しか経ってないですよね?」
「そうね」
「なのに、もう三十分くらいここにいる気分なんですけど!!」
久世は黙ったまま、追加でコーヒーを飲む。
雨露は何も聞かず、ポットを持ち上げる。
注ぐ。
音が静かに響く。
姫川は耐えきれず叫んだ。
「誰か喋ってください!!」
沈黙。
モモコが涼しい顔で言う。
「今、十分喋ってるわよ。あんたが」
「私だけじゃないですか!!」
久世はカップを置く。
雨露はそれを見て、会計の準備を始める。
「お会計ですよね」
「はい」
「聞いてない!!」
久世は立ち上がる。
無言で財布を出す。
雨露は金額を告げない。
久世はぴったりの金額を置く。
姫川は目を細めた。
「……今、金額すら言ってないですよね?」
「言っていません」
「なんで合うんですか!?」
モモコが肩をすくめる。
「だから、いつもよ」
姫川は崩れ落ちるように椅子に座った。
「……この二人、怖すぎません?」
「安心しなさい」
「どこが!?」
「害はないわ」
久世はドアの前で立ち止まる。
一瞬だけ、雨露を見る。
雨露は小さく会釈する。
それだけ。
ドアベルが鳴り、久世は出ていった。
静寂。
姫川は天井を見上げた。
「……あの人たち、仲良いんですか?」
雨露は淡々と答える。
「良好かと」
モモコはにやりと笑う。
「信頼関係よ」
姫川は深く息を吐いた。
「……信頼って、無言なんですね」
雨露は何も言わなかった。
モモコはコーヒーを一口飲んだ。
店内には、また静かな空気が戻っていた。




