第53話 匂いで始まる季節
深夜二時を少し回った頃、
ファミレスの空気が、わずかに固くなった。
誰かが寒いと言ったわけではない。
誰かが肩をすくめたわけでもない。
ただ、全員の動きが、ほんの少しだけ鈍くなっていた。
「……今日、なんか違う感じしません?」
菅原が、ドリンクバーの前で言った。
氷を入れるかどうかで立ち止まったまま、コップを傾けている。
「……違う?」
宮間が、コーヒーの表面を見つめながら聞き返す。
「空気っす。昨日まで、こんなじゃなかった気がします」
「昨日……?」
宮間は記憶を辿ろうとして、途中で諦めた。
「昨日も来たけど……正直、あんまり覚えてなくて……」
菅原は笑った。
「そうなんっすけど……なんか、もう冬きてません?」
「……まだ十一月ですよね?」
宮間はカレンダー理論を持ち出した。
「…………冬は十二月からって……決まってませんでしたっけ…」
「暦の話と、体感は別物だよ」
文月がストローを指で転がしながら言った。
テーブルの上には、まだ手を付けられていないホットコーヒー。
「人はね、季節を“感じた瞬間”に更新するんだ」
「更新……」
「スマホみたいなものだよ。ある日突然、気づかないうちに切り替わる」
「通知、欲しいっすね」
菅原が真顔で言った。
「『冬になりました』って」
「来たら来たで、嫌がるくせに」
文月は小さく笑った。
その時だった。
天井の方から、
ふっと、わずかに焦げたような匂いが落ちてきた。
「……あ」
宮間が、先に気づいた。
「これ……」
鼻先に手をやり、不安そうに顔をしかめる。
「……この匂い、知ってます」
「え、何すか?」
菅原が嗅ぐ。
「あ、ほんとだ」
文月も、ゆっくりと息を吸った。
「初暖房の匂いだね」
「初……」
「去年の埃と、使われなかった時間の匂い」
「鼻がムズムズするっす」
宮間の声が、少し上ずった。
「………も…燃えたりしませんか?」
「大抵はしない」
「……大抵って……」
「例外はある」
宮間は、完全に落ち着かなくなった。
その時、何も言わずに雨露が動いた。
カウンターの奥で、
リモコンの表示を一段階だけ上げる。
同時に、窓を数センチだけ開けた。
冷たい空気が、細く店内に入り込む。
「うわ、寒っ」
菅原が肩をすくめた。
「……あ」
宮間が、今度は違う声を出した。
「今の、完全に冬ですね」
「だね」
文月が頷く。
「暖房の匂いと、外気の冷たさが混ざると、人は“あ、来た”って思う」
「じゃあ、今が切り替えタイミングってわけっすね?」
「そういうことになる」
菅原は、納得したようにホットを注いだ。
「俺、冬、嫌いじゃないっす」
「理由は?」
「特にないっす」
「一番信用できる理由だね」
宮間は、上着の前を少しだけ掴んだ。
脱ぐか、脱がないか、迷っている。
結局、脱がなかった。
「今年も、来ましたね」
「毎年来るよ」
文月が言う。
「それでも毎回、初めてみたいな顔をする」
「慣れませんね」
「慣れない方がいい」
雨露が、短く言った。
「慣れたら、気づけません」
宮間は、少しだけ安心したように頷いた。
暖房の音が、一定のリズムを刻む。
冷えた空気は、もう入ってこない。
外は確実に冬へ向かっている。
だが店内は、まだ中間だった。
誰も宣言しなかったが、
その夜、冬は確かに始まっていた。
ドアベルが鳴る。
深夜のファミレスは、
いつもより少しだけ、静かだった。




