第51話 正解のないファミレス
深夜二時。
店のドアベルが、やけに軽い音を立てて鳴った。
「いらっしゃいませー!」
安藤の声が必要以上に明るい。
菅原はその横で、半歩遅れて頭を下げる。
「いらっしゃいませー!」
入ってきたのは文月だった。
帽子を目深に被り、逃亡者の顔をしている。
「やあ、二人か。今日は自由だね」
「はい!」
「自由っす!」
二人同時に答えてから、互いに顔を見合わせる。
「……自由、だよね?」
「多分、自由っす」
雨露はいない。
それだけで店内の空気は、わずかに柔らかく、わずかに頼りない。
文月はいつもの席に座り、メニューを開くでもなく、紙ナプキンを一枚引き抜いた。
「今日はね、思考を“落とす”実験をしようと思って」
「はい!」
「いいっすね!」
安藤が即答し、菅原も反射で乗る。
「え、いいの?」
「深夜ですし!」
「深夜っすから!」
文月は満足そうに頷いた。
「じゃあまず、コーヒーを」
「ホットでいいですか?」
「うむ……やっぱりアイスにしようかな」
「了解です!」
安藤が振り返る。
「菅原くん、コーヒーね!」
「アイスっすね!」
数秒後。
「あ、でもホットの方が哲学向きかも」
「ですよね!」
「じゃあホットっす!」
さらに数秒後。
「やっぱり両方頼もうか。比較実験だ」
「いいですね!!」
「二杯っすね!!」
キッチンに向かいかけた安藤が、急に立ち止まる。
「あ、でも二杯は多いかな?」
「……どっちっすか?」
「うーん……一杯でいいかも」
「了解っす!」
文月は紙ナプキンを折りながら、楽しそうに眺めている。
「指示が流動的だね。美しい」
誰もツッコまない。
結局、ホットコーヒーが一杯出た。
「ありがとう」
文月はカップを見て、静かに言った。
「この選択に至るまでの混乱も、味の一部だ」
「ですよね!」
「深夜ですし!」
安藤は満足そうだ。
しばらくして、文月は紙ナプキンを床に落とした。
「……あ」
「落としましたよ!」
安藤がすぐ拾おうとする。
「待って」
文月が止めた。
「これは“落ちた”のか、“落とした”のか」
「え?」
「今の、どっちだと思う?」
菅原が即答する。
「まあ深夜ですし、両方っすね!」
「素晴らしい」
文月は深く頷いた。
安藤も頷く。
「どっちでもいいですね!」
床に紙ナプキンは落ちたままだ。
誰も注意しない。
注意する役がいない。
文月は紙ナプキンを指差し、続ける。
「この店、今日はイベント感があるね」
「イベント?」
「はい?」
「“深夜の判断保留フェア”とかどう?」
安藤の目が輝いた。
「いいですね!!」
「勝手に始めます?」
「始めよう!」
菅原が手を叩く。
「ただいまよりー!」
「判断を保留してもいい時間でーす!」
文月が拍手する。
「素敵だ。締切も保留にしたい」
「それはダメです!」
安藤が即座に言った。
「あ、そこはダメなんだ」
「そこはダメです!」
「了解っす!」
三人で笑う。
他の客はいない。
誰も止めない。
安藤はホワイトボードを持ち出そうとして、途中でやめた。
「書くほどでもないか」
「雰囲気イベントっすね」
「概念だけの祭りだ」
文月はコーヒーを一口飲んで、静かに言った。
「今日はいい。誰も正解を押し付けない」
安藤が少し考えてから言う。
「……雨露くんいたら、多分、私達…怒られてたね」
「間違いないっす」
「でも、それも正解だ」
文月は立ち上がり、帽子を被り直す。
「じゃあ、私はそろそろ行こう。締切は……判断保留できなかった」
ドアベルが鳴る。
二人は同時に頭を下げた。
「ありがとうございましたー!」
「ありがとうございましたっすー!」
静寂が戻る。
「……今日、大丈夫だったかな」
安藤が言う。
菅原は店内を見回す。
「事故っては、ないっすね」
床の紙ナプキンを拾い上げながら、安藤が笑う。
「深夜って、不思議だね」
「面白いっすよね」
ドアベルはもう鳴らない。
それでも店は、なんとなく回っていた。




