第49話 深夜勤明けの豪華モーニング会
深夜勤が終わり、空はまだ薄暗い。
店内の照明がやけに白く感じられ、まぶたの裏がじんと重い。
コーヒーの香りだけが、現実につなぎ止めるように漂っていた。
雨露は小さく息を吐く。
ようやく退勤だ。
そこへ、菅原が小走りで駆け寄ってくる。
その顔には眠気の影など微塵もなく、妙な達成感だけが浮かんでいた。
「いやー、終わりましたね! 夜勤明けって、変にテンション上がりません?」
「……分かりますけど、体は正直に疲れてますよ」
雨露はそう返しながら、ふと店内の奥に視線を向ける。
窓際の席で、文月が原稿用紙に向かっていた。
分厚い紙の束を左手で押さえ、右手のボールペンを一定のリズムで走らせている。
カリ、カリ、と紙を擦る音だけが、
朝に向かうファミレスの静けさに溶けていた。
こんな時間に、こんな場所で、
しかも手書きで原稿を書く姿を見るのは、珍しい。
「……まだいらしたんですね」
雨露が声をかけると、文月はペン先を止めて顔を上げた。
「ああ。君たちが業務を終えるまでに、一本書き切ろうと思ってね」
「ファミレスで、紙ですか」
「人の気配がある場所のほうが、言葉が逃げにくい。キーボードより、今日はこっちだった」
理屈はよく分からないが、
原稿用紙には隙間なく文字が詰まっている。
「え、ずっと待ってたんですか?」
菅原が目を丸くする。
「待っていた、というより……君たちの時間と並走していた、かな」
「言い回しがもう作家なんですよ」
菅原は笑いながら手を叩いた。
「ということで! 文月先生も含めて、退勤後モーニング会ですよ! 豪華モーニング!」
「豪華って言っても、せいぜいサラダとトーストくらいじゃない?」
「甘い! 甘すぎますよ先生!」
菅原はメニューを掲げる。
「オムレツ、サラダ、ドリンク、それから――パンケーキは食べ放題です!」
そこへ安藤も合流する。
「えっ、パンケーキ食べ放題!?」
「そうみたい」
文月はメニューの端を確認して答えた。
「……朝から、なかなか攻めてるね」
「攻めてるからこそですよ!」
文月がいた席に腰を下ろし、モーニングを注文する。
伝票を持ってきたのは、朝番の元気なおばちゃん店員だった。
「あら、みんな揃ってモーニング?いい一日の始まりね」
そう言いながら、雨露たち四人分のモーニングセットを軽やかに通していく。
モーニングセットが運ばれてくると、テーブルは一気に賑やかになる。
山盛りのサラダ、ふわふわのオムレツ。
そして、大皿に積まれたパンケーキ。
菅原は早速、追加で運ばれてきたパンケーキを、
自分の皿の上にそっと一枚、また一枚と重ね始めた。
「ちょ、菅原くん、それ何段までいくつもりですか?」
安藤が目を丸くする。
「限界までです!」
「限界は胃ですよ」
雨露の声は相変わらず落ち着いている。
「……止めなさい」
「……ですよね」
一瞬だけ手を止めるが、
菅原は「三段までならセーフですよね?」という顔で、そっともう一枚を乗せた。
そのとき、菅原がふと首をかしげた。
「……あの、この店って、どうやって利益出してるんですか?」
唐突だが、妙に現実的な疑問だった。
雨露は驚く様子もなく、コーヒーを一口飲んでから答える。
「モーニングとランチです」
「え?」
「朝と昼で、ほぼ全部稼いでます。深夜帯は、正直トントンか赤字ですね」
「じゃあ、今の時間って……」
「維持です。店を開けておく意味と、常連さんと、ついでに私たちの給料」
菅原はパンケーキに視線を落とす。
「じゃあ、この食べ放題も……」
「朝に人が来るから成立します。原価は抑えて、回転で利益を出す仕組みです」
「……思ったより、ちゃんとしてる」
文月がパンケーキの層を眺めながら、ぽつりと口を挟む。
「朝に甘いものを与えるのは、人の幸福感を最大化する合理的な戦略だね」
「哲学的に言わないでください」
雨露は淡々と続ける。
「数字があるから、深夜も続けられる。それだけの話です」
「じゃあ、俺たち……」
「今、店に貢献してますよ」
「パンケーキで?」
「ええ。しっかり」
菅原はなぜか少し誇らしげに、
さらに一枚、パンケーキを重ねた。
安藤はパンケーキにハチミツをいっぱいかけていた。
「わー、美味しそう!」
勢い余って、皿の縁から垂れる。
「安藤さん、それ、朝から胃に優しくないですよ」
「だいじょぶでふっ!」
文月は原稿用紙を揃え、ボールペンを置く。
「原稿を書き終えた直後の食事は、思考と現実の境界が、まだ柔らかい」
「冷める前に食べましょう」
食事が進むにつれ、
菅原と安藤は素直に感想を口にする。
「パンケーキ、ふわふわ!」
「甘い!」
文月はフォークを置き、窓の外を眺めた。
「朝というのは、まだ世界が眠っている瞬間。人はこうして、小さな幸福を積み重ねる……」
雨露はその言葉に、カップを傾けながら頷く。
「……まあ、こんなモーニングなら、世界がまだ優しい気がするのも分かりますね」
最終的に皿はほぼ空になり、
テーブルにはコーヒーだけが残った。
菅原は満足げに背伸びをし、
安藤はにこにこ笑っている。
「……朝って、いい時間だね」
文月のその一言に、雨露は小さく苦笑した。
「……そうですね」
深夜勤明けの疲れを、静かにほどいてくれる朝。
シュールで奇妙で、それでも確かに温かい――
そんなひとときだった。




