第48話 土下座の回数を数えない夜
深夜一時三十分。
ファミレスのドアが開く音は、昼よりも少しだけ大きく聞こえる。
「いらっしゃいませ」
雨露はいつも通り、感情の起伏のない声でそう言った。
その声を聞いた瞬間、入ってきた女性――笹原は、ほんの一瞬だけ肩の力を抜いた。
パンツスーツはきっちりしているが、目の下には隠しきれない影がある。
髪も、いつもよりわずかに乱れていた。
「……こんばんは」
「お席、いつものところでよろしいですか」
「ええ、お願いします」
迷いなく案内されたのは、カウンター席
笹原は腰を下ろすと、椅子の背に深く体を預けた。
「お飲み物は」
メニューを見なくても、答えは分かっている。
「コーヒーで。……今日は、濃いめで」
雨露は一瞬だけ笹原の顔を見て、静かに頷いた。
「かしこまりました。今日は、濃いめですね」
「……分かります?」
「分かります」
それだけ言って、雨露は伝票に何かを書いた。
テーブル席では、宮間が一人、ミートソースパスタを前にうなだれていた。
パスタは既に冷めている。
「……今日も、誰かが土下座してる……」
独り言とも呟きともつかない声。
雨露がコーヒーを運んでくると、笹原は両手でカップを包んだ。
「……先生、逃げました」
「でしょうね」
間髪入れず返されて、笹原は小さく笑った。
「今回はですね、駅のロッカーです」
「進化しましたね」
「ええ。観葉植物から、ロッカーに」
雨露は何も言わず、砂糖とミルクを置く。
「……私、今日で何回土下座したと思います?」
「数えない方が、精神衛生上よろしいかと」
「ですよね」
笹原はコーヒーを一口飲み、眉をひそめた。
「……濃い」
「今日は、そういう日です」
少し離れた席で、宮間が顔を上げた。
「……あの、笹原さん」
「はい?」
「土下座って……回数、増えすぎると、逆に存在意義を失うと思うんです」
笹原は数秒沈黙したあと、真面目な顔で頷いた。
「分かります。形式化した謝罪は、魂が宿らない」
「ですよね……!」
宮間は嬉しそうに身を乗り出した。
「だから僕、謝るときは……まず孤独死の可能性を考えてから――」
「考えなくていいです」
雨露が即座に遮った。
「今ここでその話を広げると、収拾がつきません」
「す、すみません……」
宮間はしょんぼりとフォークを握り直す。
笹原はその様子を見て、ふっと息を吐いた。
「……不思議ですね」
「何がでしょう」
「ここに来ると、土下座の回数を数えなくてよくなる」
雨露は少し考えてから言った。
「この時間帯は、カウントが無効になりますので」
「公式ですか?」
「非公式です」
二人は同時に小さく笑った。
そのとき、宮間がぽつりと言った。
「……僕、今日、誰にも怒鳴られなかったんです」
「それは良かったですね」
「はい。でも……ちょっと、物足りなくて」
笹原が首を傾げる。
「怒られたいんですか?」
「怒られないと、生きてる実感がなくて……」
「重いですね」
雨露は淡々と言い切った。
「ですが、ここでは軽めでお願いします」
店内には、深夜特有の静けさが戻る。
エアコンの音と、コーヒーメーカーの低い唸りだけが響いていた。
笹原はカップを置き、背筋を伸ばした。
「……明日も、捕まえます」
「ご武運を」
「ありがとうございます」
宮間はそのやり取りを見て、少しだけ安心した顔をした。
この場所では、誰も土下座の回数を数えない。
数えなくても、ちゃんと夜は進む。
深夜二時。
ファミレスは今日も、静かに誰かの限界を受け止めていた。




