第40話 経験は口の中に居座る
深夜二時。
ファミレスは、「営業中」というより「起きている人の避難所」みたいな顔をしていた。
客は少ない。
音も少ない。
エアコンと、厨房の奥で何かが冷える音だけが、時間を引き延ばしている。
カウンター席の端で、文月は紙ナプキンを一枚取り、指先で折り目をなぞっていた。
真剣そのものだ。
「……不思議だよね」
ぽつりと呟く。
「この折り目、最初からここにあったわけじゃない。
でも、今は“あったこと”として存在している」
背後で、雨露が皿を拭く手を止めずに言う。
「それは単に、誰かが折ったからです」
「でも、その“誰か”はもうここにいないよね」
「帰っただけです」
文月は少しだけ微笑った。
「それでも痕跡は残る。人も、たぶん同じなんじゃない?」
カウンターに肘をついていた菅原が、感心したように頷く。
「いやー、こういう話、深夜って感じしますよね。昼だと聞き流すのに」
「昼間は、忙しいですから」
雨露は淡々としている。
「考えなくていいことを、考えなくて済みます」
「それが逆に怖くないですか?」
菅原は軽い調子で言った。
「考えなくていいって線を引かれると、むしろ思考がそっちに向くんだよね」
折り目をなぞりながら屁理屈を並べる文月には取り合わず、雨露は拭き終えた皿を静かに所定の場所へ戻した。
そのとき、店の奥から足音がして、安藤が現れた。
やけに元気で、両手には小さな銀色の袋を持っている。
「みなさん! ちょっといいですか!」
「そのテンションは、だいたい良くない前触れです」
雨露の声は低い。
安藤は気にせず、袋をカウンターに置いた。
「今日、もらったんです! すっごく珍しいグミ!」
袋が置かれた瞬間、空気が変わった。
甘いようで、甘くない。
果物のはずなのに、どこか危険な匂い。
文月が一瞬、動きを止める。
「……これは……」
雨露は眉をひそめた。
「換気が必要な案件ですか」
菅原だけが、目を輝かせていた。
「え、なにこれ。すご……逆に気になります」
「ですよね!」
安藤は嬉しそうだ。
「ドリアン味です!」
「ドリアン……!」
菅原は一歩近づき、袋を覗き込む。
「名前は知ってますけど、食べたことなくて。ほら、“王様の果物”って言うじゃないですか」
「匂いは、王様というより武器です」
雨露が静かに言う。
文月は慎重に匂いを嗅ぎ、頷いた。
「嗅覚への直接攻撃だね。これは……記録しとく価値ある」
すでにノートを開いている。
安藤は一粒取り出し、軽い気持ちで口に入れた。
「いただきまーす!」
数秒後。
「……あれ?」
表情が固まる。
「……あれあれ?」
安藤は咀嚼をやめ、口を押さえた。
「……匂いが……中から……」
文月のペンが走る。
「外部刺激が内部感覚を侵食する現象……」
「分析してる場合ではありません」
雨露がティッシュを差し出す。
菅原は、そんな様子を見ながらも、なぜか引き下がらなかった。
「でも……グミですよね。ほんの一口なら……」
「菅原くん」
「大丈夫です! 人生経験です!」
雨露が止める前に、菅原は一粒つまみ、口に入れた。
三秒。
五秒。
「……」
菅原の動きが止まる。
次の瞬間。
「いや待って待って待って」
声が裏返った。
「これ、違う! 思ってた“果物”と違う!」
慌てて水を探し、喉を鳴らす。
「匂いが! 逃げない! 口の中にずっと居座ってる!」
文月は即座に顔を上げた。
「興味深いね。拒否反応が即座に出る」
「興味深がらないでください!」
菅原は半泣きだ。
安藤は心配そうに覗き込む。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫じゃないです! 僕、今すごく後悔してます!」
雨露は冷静に言った。
「自分から行った結果です」
「分かってます! 分かってますけど!」
菅原は深呼吸し、はっきり言った。
「もう一個? って聞かれても、絶対に断りますからね!」
安藤が袋を差し出す。
「えー、でもコーラと一緒にいったら……」
「無理です!」
即答だった。
「さっきまで興味あった自分が信じられません! 人って、学ぶんですね!」
文月は満足そうに頷く。
「恐怖による判断修正。成長と言えるね」
「今まさに体感中です……」
菅原は椅子に座り込み、ぐったりした。
雨露は袋を見て、一言。
「好奇心は、常に報酬とセットとは限りません」
安藤はわずかに残念そうな顔をし、菅原はぐったりしたまま、ただ頷いた。
匂いはまだ、店内に残っている。
しかし、誰ももう手を出さなかった。
深夜二時。
ファミレスは静かに、
一人分の経験値だけを、確実に積み上げていた。




