第36話 海外なら普通、という魔法の言葉
深夜二時。
ファミレスの照明は、人と人との境界線を少しだけ溶かす種類の明るさだった。
それに最初に異変を感じたのは、宮間だった。
「……あの」
声をかけると同時に、隣の気配がはっきりする。
文月が、いつの間にかすぐ横に座っている。
「……近いですね」
「うん」
文月は気にも留めずに答えた。
「今から実験をします」
「実験……ですか」
「距離感について」
菅原が即座に反応する。
「あ、それ海外だと普通ですよ!」
「まだ何も始めてないけど」
「でもこうやって近くに座るの、向こうじゃ全然ありますし!」
「あるね」
文月はあっさり肯定した。
「だから?」
雨露は伝票を書いたまま言う。
「ここはファミレスです」
「ほら! でも海外のカフェとか!」
「それはカフェです」
宮間は、どうしていいか分からず背筋を伸ばしたまま固まっていた。
文月は、さらに数センチ距離を詰める。
「どう?」
「……えっと」
「率直でいいよ」
「……落ち着かないです」
「理由は?」
「近いから……だと思います」
菅原がうなずく。
「やっぱ日本人だから!」
「海外なら普通です!」
「海外は関係ありません」
雨露の声は、相変わらず平坦だった。
文月は少しだけ口角を上げる。
「今の、いいデータ」
「データ……」
「距離が近いだけで、不安になる」
「……はい」
「会話、特に何もしてないのにね」
文月は、今度は椅子を少し引いた。
「じゃあ、今は?」
「……楽です」
「さっきと何が違う?」
「距離……だけです」
「そう」
文月はストローを指で転がす。
「言葉より先に、距離が感情を決めてる」
菅原が首をかしげる。
「でも海外の人って、これ平気じゃないですか?」
「平気な人もいる」
「ほら!」
「それはその人が平気なだけ」
文月は即答した。
「文化じゃない」
「えっ」
「個体差」
雨露が補足する。
「正確には、慣れです」
「ほらー、細かい!」
文月は続ける。
「“海外なら普通”って言葉さ」
「はい」
「便利なんだよ」
宮間が顔を上げる。
「便利……?」
「自分の違和感を無視するための呪文」
「呪文!」
菅原が楽しそうに言う。
「やっぱ魔法じゃないですか!」
「使うと楽になる」
文月は淡々と言う。
「でも」
「でも?」
「相手の不快感は消えない」
宮間は、小さく息を吐いた。
「……確かに」
文月は、完全に距離を戻した。
「今は?」
「……安心します」
「それが答え」
雨露は、そこで顔を上げた。
「結論は出ています」
全員が見る。
「距離は、双方の合意で決まります」
「海外でも?」
「海外でもです」
「日本でも?」
「日本でもです」
菅原は腕を組んで考え込む。
「じゃあ……海外なら普通って」
「言い訳です」
文月があっさり言った。
深夜二時。
人と人の間には、測れないけれど確かに存在する境界があった。
文月は満足したように立ち上がる。
「実験終了」
雨露は伝票を閉じ、菅原を見る。
「菅原くん」
「はい!」
「仕事して下さい」
現実は、
いつも正しい距離で近づいてくる。




