第35話 恋は泡の行方次第
深夜二時。
街のネオンがぼんやりと揺れ、ファミレスの店内には、かすかな厨房の蒸気とコーヒーの香りが漂っていた。
カウンターでは雨露が伝票を整理している。
淡々とした指先の動きのまま、ときおり店内に視線を走らせる。
その静寂を破るように、入口のドアが勢いよく開いた。
「やだーっ、また失恋しちゃったわ!助けてマリエさまー!」
滑り込むように現れたのはモモコだった。
派手なコートに鮮やかなマフラー。その存在感だけで、夜の店内の温度が一段階上がる。
手には小銭入れを握りしめ、すでに半分泣き顔だ。
雨露は顔色一つ変えず、カウンター越しに声をかける。
「いらっしゃいませ。いつものでよろしいですか、モモコさん」
「ええ、それが運命を呼ぶ鍵なのよ!」
即答だった。
カウンターの一角では、タロットカードを広げながらマリエがコーヒーを嗜んでいる。
胸元の小さな水晶玉が、店内の照明を受けてキラリと光った。
「ふふふ……この空気。恋と運命の気配がぷんぷんしていますわね」
「さすがマリエさま!もう分かってるのね!」
モモコは勢いよく隣の席に腰を下ろし、身を乗り出す。
「聞いてちょうだい!今日もね、いい感じだと思った人がいたんだけど、最後に“いい人だね”って言われたの!」
「それは……」
「ダメなやつよね!」
雨露はビールを置きながら淡々と言う。
「いつもの展開ですね」
「冷たいわね、でもそこが好きよ!」
マリエはカードを整え、ゆっくりとシャッフルする。
「まあまあ。まずは落ち着いて。モモコちゃん、ビールの色と香りを感じてくださいな。運命は、味覚と香りに宿りますの」
「そうなのね……!」
モモコはグラスに顔を近づけ、真剣な表情で息を吸い込む。
「……ふふ。泡が生きてる。右に流れて……あら、迷ってるわね」
「泡、そんなに喋ります?」
雨露が淡々と挟む。
「喋るのよ、坊や」
「……坊やではありません」
深夜二時。
静かな店内で、モモコの大げさな身振りと、マリエの占い口調はすっかり馴染んでいた。
マリエはカードを一枚めくり、目を細める。
「……あら。この泡の形。あなた、明日は運命的な出会いがあるかもしれませんわ」
「ええっ!?本当!?誰!?どこで!?どんな人!?」
モモコはグラスを両手で抱え、前後に揺れる。
「焦らないで。ヒントは……“右”ですわ」
「右?」
「右隣の人の、右手を見ることですの」
「右隣……右手……」
モモコは一瞬考え込み、ぱっと顔を上げる。
「わかったわ! 明日、絶対チェックする!」
勢い余ってグラスを掲げ、ビールが少し溢れた。
雨露は無言でティッシュを差し出す。
「……そこ、溢れています」
「ありがとう。これも運命ね」
「違います」
マリエは水晶玉を転がし、グラスに光を反射させる。
「ほら、この泡。あなたの心の迷いを映していますわ」
「迷い……」
モモコは深刻な顔でグラスを覗き込む。
「もし右隣の人がイケメンだったら……運命!でも、そうじゃなかったら……それも試練よね……!」
「妄想が先行しています」
雨露の指摘は的確だった。
マリエはカードをしまい、水晶玉を小脇に抱える。
「運命はね、最終的にはあなた自身が選ぶものですのよ」
モモコはビールを飲み干し、満足げに微笑んだ。
「わかったわ!明日は右隣の人の右手を見る!
それで恋の行方を決めるの!」
雨露は小さく息をつき、再び伝票整理に戻る。
深夜二時のファミレスには、再び静けさが戻った。
けれどその空気は、ほんのりと可笑しく、どこか温かかった。




