第32話 新人研修はだいたい騒がしい
深夜一時四十分。
店内は静かで、空調の低い唸りと、コーヒーが冷めていく気配だけが漂っていた。
奥の席にはすでに宮間がいる。
背中を丸め、テーブルの上に並べたガムシロップを、じっと見つめていた。
「……進捗、ゼロ……いや……これは……」
一本、そっと位置をずらす。
「見た目が進捗なだけで……実質……停滞……」
小さくため息をつく。
その少し手前、カウンター横で安藤が勢いよく振り返った。
「はーいっ!
じゃあ菅原くん! 今日から深夜研修だよー!」
声が無駄に明るい。
「お願いします、安藤さん!」
菅原は反射的に背筋を伸ばし、少し頭を下げる。
「はじめまして、菅原です!
新人です。趣味は旅、行ったつもりの国も含めてですけど!よろしくお願いしますー!」
「いやー、深夜って旅先の乗り継ぎ空港感ありますよね」
「分かるー!
何か起きそうで起きないし、起きたら一生覚えてるやつ!」
二人のテンションを、少し離れた場所から冷却する声が落ちた。
「安藤さん」
「はいっ」
「まずは通常業務の説明をお願いします」
雨露だった。
グラスを拭きながら、視線だけを向けている。
「あっ、そうだった!
ごめんね、つい楽しくなっちゃって!」
「楽しくなるのは構いませんが、順序を守ってください」
「はーい!」
安藤は元気よく頷き、奥の席を指差した。
「まずね、あそこにいるのが宮間さん!」
宮間はびくっと肩を揺らし、慌てて立ち上がりかける。
「えっ、あ、こちらこそ……今日は……その……死なない予定です……」
「最高ですね!」
「肯定しないでください」
雨露が淡々と制止する。
安藤は気にせず続ける。
「宮間さんはねー!
基本すっごく静かで、優しくて、ちょっと繊細なの!」
「繊細……」
「だから話しかけすぎないのがコツ!
でも無視もしない!ちょうどいい距離感を保つの!」
「旅でいうと、同じ宿だけど部屋は別、みたいな」
「例えなくて大丈夫です」
宮間は小さく会釈した。
「……話しかけてもらえるのは……嫌では……ないです……ただ……急だと……心臓が……」
「ほら!可愛いでしょ!」
「評価基準を業務寄りにしてください」
安藤は一度咳払いし、急に真面目な顔になる。
「それからね、菅原くん。
深夜で一番大事な注意点があるの」
「はい」
安藤は声を潜めた。
「この時間帯、備品が減るの」
「……減る?」
雨露がグラスを置き、淡々と補足する。
「正確には、実験で消費されます」
「実験……?」
「主に、文月先生によってです」
「犯人名、出るんすね」
「隠す理由がありません」
安藤がうんうんと頷く。
「ストロー、紙ナプキン、砂糖、ガムシロップ!気付くと“思想の検証”に使われてるの!」
「それは……業務外では……」
「悪意はありません。
ただし、回収率は低いです」
「一度混ざった砂糖は、もう戻ってこないんだよ……」
「切実ですね」
雨露は菅原を見る。
「菅原くん」
「はい」
「文月先生を見かけたら、手元を確認してください」
「はい」
「備品を並べ始めたら、実験が始まっています」
「止めるんすか?」
「注意してください」
「どのくらいの強さで……?」
「“穏やかに、即座に”です」
「難易度高くないっすか」
「慣れます」
そのタイミングで、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませー!」
入ってきたのは文月だった。
整った顔立ちだが、目の奥が明らかに限界に近い。
「こんばんは……ここ、時間が溶けてるね」
「いらっしゃいませ」
雨露は平常運転だ。
菅原は一歩前に出て、元気よく挨拶する。
「新人の菅原です!よろしくお願いします!」
「ほう、新人くんか」
文月はじっと菅原を見る。
「君、まだ人の形を保っている。いい状態だよ」
「それ、褒め言葉っすか?」
「締切前の私基準では、最大級に」
案内される途中、文月は無意識にストローを数本取り、テーブルに並べる。
「文月先生」
雨露が即座に声をかける。
「実験は最小限でお願いします」
「……まだ仮説段階だが?」
「すでに三本使っています」
「数が多いほど、真理に近づく」
「在庫は減ります」
「……現実的だね」
文月は肩をすくめ、三本だけ残した。
宮間の近くに座り、早速紙ナプキンを折り始める。
「やあ、宮間くん。
今日も孤独死を回避しているかい」
「は、はい……今のところ……」
「素晴らしい。
では日用品を使った思考実験をーー」
「文月先生」
今度は菅原が、少し緊張しながら声を出す。
「それ……何枚使いますか?」
文月は一瞬だけ菅原を見て、にやりと笑った。
「なるほど。制限がある方が、思考は鋭くなる。いい注意の仕方だ」
「……ありがとうございます!」
少しだけ緊張が解け、菅原は肩の力を抜いた。
その様子を、カウンター越しに見ていた安藤が小声で言う。
「ねえ、雨露くん」
「はい」
「今回の新人くん、なかなかやるよね」
「そうですね」
雨露は視線を文月のテーブルから離さず、淡々と続ける。
「状況を見て、相手を刺激しすぎず、要点だけ伝えています」
「しかも怖がりながら!」
「重要です」
安藤はにこっと笑う。
「上手くやれそうだね」
雨露は一拍置き、静かに頷いた。
「……この時間帯向きです」
奥の席では、宮間がガムシロップを一つ動かしながら、小さく呟く。
「……よかった……仲間が……増えた……」
深夜二時。
新人研修は、備品の数を保ったまま、静かに次の段階へ進み始めていた。
この店の夜は今日も、少し騒がしく、だが確実に前へ進んでいる。




