第31話 トリック・オア・トラブル
深夜二時。
街の灯りはすっかり眠りにつき、冷えた空気の中で、ファミレスのネオンだけがぼんやりと呼吸している。
その店内には、今夜だけ、わずかなざわめきがあった。
「今月はハロウィンですからね」
鳩山店長は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべたままスタッフを見渡す。
「深夜ですし、大げさなことはしませんが……ミニ仮装、ということで」
「了解しました」
雨露は淡々と頷き、吸血鬼のマントを肩にかける。
牙はつけない。黒い布が一枚増えただけで、業務内容は何一つ変わらない。
一方、安藤は完全にイベントモードだった。
「ゾンビメイク、結構いい感じじゃないですか?」
顔色を悪く塗り、腕をだらりと垂らしながら呻き声を出す――が、動きは異様に素早い。
レジ、ドリンクバー、厨房前を小刻みに往復している。
雨露はモップを手にしたまま視線を向けた。
「……安藤さん」
「はい!」
「ゾンビにしては、動作が機敏すぎます」
「えっ」
「生存判定です」
「そ、そんな……」
「心拍数も高そうです」
「元気なゾンビという設定で!」
「設定が破綻しています」
安藤は笑いながら、再びキビキビと動き出した。
その様子を、テーブル席から宮間が不安げに見ている。
深夜残業明けの疲労が、表情に色濃く残っていた。
「……あの」
「はい」
「みんな仮装してますけど……僕も、やった方が……いいんでしょうか」
その言葉を聞いた瞬間、安藤が駆け寄る。
「もちろんです!」
どこからともなく取り出したオレンジと黒のモールを、迷いなく宮間に巻き付ける。
「え、ちょ、待っ……」
「完成です!」
「……完成……?」
宮間はモールに絡まれたまま、小さく頷いた。
「……ありがとうございます……」
その直後、入口のドアが勢いよく開いた。
「お菓子をくれないと、イタズラしちゃうわよ〜!」
酔った足取りで入ってきたのはモモコ。
カボチャの帽子をかぶり、赤いドレスが揺れている。
「夜も遅いですが……」
「細かいことは気にしないの!」
雨露は小さく息を吐く。
「他のお客様のご迷惑にならない範囲でお願いします」
「はーい、優等生〜」
その背後から、紙袋を被った人物が滑り込む。
「おや。幽霊ならぬ、仮装者の集積だね」
文月だった。
両腕には、すでに膨らませた風船が大量に抱えられている。
「何をしているんですか」
「実験です」
「簡潔に」
「風船の浮遊と人間心理の関係性をーーー」
「簡潔に」
「楽しい」
文月は次々と風船を膨らませ、店内に放っていく。
天井付近をふわふわと漂い、いくつかは照明にぶつかって跳ね返った。
だが一つ、文月の手を離れた瞬間、空調の風を受けて予測不能な動きをする。
「……あ」
「どこ行くんですか!」
「捕まえたい……!」
安藤が反射的に追いかける。
「う、うぉー……」
「呻きながら全力疾走はやめてください」
「無理です!」
宮間はモールに絡まれたまま避けきれず、椅子ごと揺れる。
「……助けてください……!」
その混沌の中、ドアが静かに開いた。
久世だった。
店内を一度だけ見渡し、短く言う。
「……賑やかですね」
「騒がしくて申し訳ありません」
雨露はすぐに切り替える。
「カウンター席でよろしいでしょうか」
「はい」
「いつもので」
「お願いします」
コーヒーが置かれる。
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
久世はそれ以上語らず、静かにカップを手に取った。
背後では、
「お菓子!」
「提供できません」
「幽霊は甘味にーーー」
「静かにしてください!」
風船はようやく捕獲され、文月は満足そうに頷く。
「成功だね」
「何がですか」
「混乱」
雨露は淡々と掃除道具を手に取り、
やりたい放題の痕跡を一つずつ回収していく。
床のモール、転がった風船、意味を失った仮装。
一通り片付いたところで、雨露は手を止め、
店内を見回した。
「……来年は、“楽しさ”と“安全”を両立させる努力をお願いします」
一拍置き、静かに付け足す。
「少なくとも、人を装飾品として扱うのは控えてください」
宮間がモールを引きずったまま、小さく頷いた。
深夜ファミレスには、
ほんの少し歪んだハロウィンの気配と、
回収しきれない反省だけが、静かに残っていた。
今日もまた、この店はカオスな夜を、ぎりぎり日常として生き延びたのだった。




