第30話 ハロウィンの気配
深夜二時。
街の灯りはほとんど眠りにつき、冷たい空気の中、ファミレスのネオンだけがぼんやりと光っていた。
そのネオンの下、店内にはいつもとはわずかに違う空気が漂っていた。
理由は明確である。
鳩山店長が、穏やかな微笑みを浮かべながら、ほんの思いつきのように言ったのだ。
「今月はせっかくのハロウィンですから、店内を飾り付けてみませんか?」
その瞬間、安藤の目が輝いた。
「わあ、いいですね! 私、張り切っちゃいます!」
止める間もなかった。
安藤は倉庫へ駆け込み、段ボールを抱えて戻ってくる。
中身はオレンジ色のランタン、蜘蛛の巣、カラフルな風船、そして用途不明のモールの山。
「これ、全部使えますよね!」
返事を待たず、安藤は店内を縦横無尽に走り回り始めた。
天井に蜘蛛の巣、テーブルの端にランタン、なぜか非常口付近に風船。
その一方で、文月はカウンターの隅に腰掛け、
無言で風船を膨らませ始めていた。
赤、紫、黒、オレンジ。
色の組み合わせには一貫性がなく、
大きさにも微妙なばらつきがある。
「……ふむ」
文月は一つ膨らませるたびに、
風船を軽く持ち上げ、重さと反発を確かめるように眺める。
「空気というのはね、形を持たないからこそ——」
誰も聞いていない。
文月の足元には、すでに膨らまされた風船が十個以上転がっていた。
紐も結ばれないまま、静電気で互いにくっつき、離れ、また転がる。
一方その頃、宮間はカウンターの椅子に座り、完全に思考を停止させていた。
目の前には処理されるはずだった書類、手にはガムシロップ。
握ったまま、虚ろな目で天井を見つめている。
「……今日、何曜日でしたっけ」
誰も答えなかった。
安藤は、余った装飾を手に取り
少し考えた末、迷いなく宮間の方へ向かった。
「宮間さん、ちょっといいですか?」
「え……?」
次の瞬間、モールがぐるぐると宮間の胴体に巻き付けられる。
「え、ちょ、やめ……」
「わあ、ぴったり!」
「うわ、動けません……」
抵抗しようにも、疲労は限界を超えていた。
宮間の体は、徐々に“生きている装飾”へと変貌していく。
その光景を見て、文月は風船を膨らませる手を止め、小首をかしげた。
「おや、これは興味深い。哲学的に言えば、宮間くんの身体が今、装飾物として再定義されているわけだ」
「再定義ではありません。ただ巻きつけられているだけです」
雨露が淡々と訂正する。
「動かないと危険です。呼吸は確保されていますか」
「大丈夫です!ちゃんと隙間あります!」
安藤は無邪気に言いながら、さらに装飾を足す。
文月は再び風船を手に取り、膨らませ始めた。
「先生、風船はどこに……」
「宙に浮かせましょう。量があれば、思想も浮きます」
「思想は置いてください」
雨露は静かに溜息をついた。
鳩山店長は少し離れた場所から全体を眺め、満足そうに頷いている。
「うん、いい感じだね。照明を少し落とすと、雰囲気が出そうだ」
その直後だった。
ランタンの電池が切れ、
店内の光が一瞬だけ不安定になる。
その拍子に、文月の手から、
膨らませたばかりの風船の束がすり抜けた。
「あ」
風船は一斉に天井付近へ舞い上がり、
空調の風を受けて、店内を自由奔放に飛び回り始めた。
「ちょっと待って、行き先が自由すぎます」
「わはは!生きてるみたいだね!」
「……頭上注意です」
宮間は椅子に縛られたまま、
迫り来る風船を避けようと、必死に顎を引く。
「こっち来ないで……!」
一つの風船が、ゆっくりと彼の顔の前で停止する。
「……見つめ合わないでください……」
結果として、店内は「ハロウィン仕様」になった。
……と言えなくもない。
装飾は斜め、蜘蛛の巣は床に垂れ、
風船はいくつも天井付近を漂ったまま。
宮間は依然としてモールに巻かれている。
その時、ドアが開いた。
鬼の形相をした笹原が、静かに入店する。
「文月先生」
「原稿は?」
文月は、空を漂う風船を一つ見送りながら振り返った。
「……あ、ええと、まだ……」
笹原の目は冷静だった。
だが、その奥で確実に怒りが燃えている。
「私、もう我慢できません」
次の瞬間、笹原は文月の腕を掴み、颯爽と入口へ向かう。
「え、ちょ、待って! 哲学的に言うとーー」
「哲学は締切を終えてからにしてください!」
ドアが閉まり、静寂が戻る。
雨露は淡々と掃除道具を手に取り、
やりたい放題の痕跡を一つずつ回収していく。
床に落ちた装飾、剥がれかけた蜘蛛の巣、絡まったモール。
天井近くを漂う風船は、棒で静かに叩き落とした。
その様子を見渡しながら、鳩山店長は変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべ、ぽつりと言った。
「……安全面だけは、来年考えましょう」
誰も反論しなかった。
深夜ファミレスには、
ほんの少しだけ歪んだハロウィンの気配と、
反省の余韻だけが残っていた。




