第3話 泳ぐ金魚とドリンク無料券
深夜二時。
シャッター商店街は、今日も世界から切り離されたみたいに静まり返っている。その中で、なぜか観葉植物だけが生き生きしているファミレスは、変わらず営業中だった。
カウンターには、雨露と宮間がいるだけだった。
宮間はテーブルに突っ伏し、微動だにしない。
気絶しているのか、深い孤独死妄想の海に沈んでいるのか、判別は難しい。
そこへ、入口のドアベルが鳴った。
「失礼します」
パンツスーツに身を包んだ女性が、店内を見回す。
笹原だった。
「……先生は?」
「いません」
雨露は、レジから目を上げずに即答した。
「本当に?」
「ここにいるお客さんは、気絶してる宮間さんだけです」
笹原は一瞬だけ目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「……そうですよね」
カウンター席に腰を下ろすと、背筋を正したまま、天井を見上げる。
「もう……本当に、手に負えないんです」
「そうですか」
「締切前になると、急に“書けない自分を観察したい”とか言い出すんですよ?」
「観察は、たいてい逃げの別名です」
「そうなんです!……しかも次の連載、全然進んでなくて……」
笹原の声は、だんだん熱を帯びていった。
「プロットは白紙、本文は三行、メモは哲学!編集会議で何て言えばいいんですか!」
宮間が、ピクリと指先を動かした。
が、目は覚まさない。
雨露は、淡々とコーヒーを淹れながら言った。
「愚痴は何杯目ですか」
「……一杯目、のはずです」
「表情的には三杯目です」
笹原は、苦笑してコーヒーを口に運んだ。
「先生は追い詰められた美学とか言うんですけど……こっちは、美学じゃなくて納期なんです」
「納期は、哲学より強いです」
「ですよね……」
その後も、コーヒーは減り、愚痴は溜まった。
二杯目。
三杯目。
文月の奇行録は、途切れることなく続く。
「観葉植物に擬態したと思ったら、次は“編集者の視線から消える実験”ですよ?」
「成功率は高そうです」
「成功しなくていいんです!」
カウンターの端で、宮間が小さく呻いた。
「……しぬときは……ひとりじゃ……」
誰も拾わなかった。
三杯目のコーヒーを飲み干した笹原さんは、肩を落とした。
「……すみません。止まらなくて」
雨露は、レジ下から一枚の紙を取り出し、差し出した。
「ドリンク一杯無料のサービス券です」
「え?」
「編集者業は、消耗が激しいので」
笹原は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「……ありがとうございます」
その時だった。
ガラス越しに、店の前を通り過ぎる影が見えた。
目が合った。
文月だった。
「……あ」
次の瞬間、文月は踵を返し、全力で逃げ出した。
「先生っ!!」
笹原は立ち上がり、レジに向かって叫ぶ。
「お釣り大丈夫なんで!」
「はい」
鬼の形相で、外へ飛び出していった。
静けさが戻る。
雨露は、レジ横の金魚鉢を眺めた。
金魚は、狭い世界の中を、同じ軌道でぐるぐると回り続けている。
それはまるで、笹原に議題を押し付けて逃げ回る文月に見えた。
宮間は、まだ気絶している。
深夜ファミレスは、今日も誰かの逃亡と、誰かの苦労を、淡々と受け入れていた。
コーヒーの在庫だけが、少し減っていた。




