第29話 秋の新作はカオスの味
深夜二時。
街路樹の葉が風に擦れる音と、遠くで犬が一度だけ吠える声が、静まり返った通りに溶けていく。
その片隅で、いつものファミレスだけが、何事もない顔で灯りを点けていた。
雨露はカウンターの端に腰掛け、休憩用の雑誌を開いている。
文字は目に入っているが、意味はほとんど追っていない。
この時間帯は、経験上、何かが起きる。
そしてその予感は、入口のドアが想定よりも勢いよく開いた瞬間、的中した。
「こんばんはー! 私、今日、すごいの作ったよ!」
紙袋を三つ抱えたサモンが、ほとんど滑り込むように店内に入ってくる。
タイからの留学生で、料理人。
昼は比較的おとなしいが、深夜になると、なぜか料理への衝動を抑えきれなくなる男だ。
「……こんばんは」
雨露は雑誌を閉じ、即座に観察態勢に入る。
紙袋から、じわりと匂いが広がった。
甘い。
辛い。
スパイスの主張が強く、店内の空気がゆっくりと塗り替えられていく感覚がある。
「ハロウィン、もうすぐね?」
サモンは楽しそうに言う。
「だから私、考えた。ちょっと怖い料理。でも、楽しい料理!」
「怖いの時点で不安です」
雨露の低い声は、サモンの勢いを止めるには弱すぎた。
紙袋が次々と開かれる。
紫色のソースがかかったパンプキンパイ。
ガパオライスをベースに、黒唐辛子を山盛りにしたオレンジ色のカレー。
さらに、赤と橙の中間色をした、とろりと重たいカボチャスープ。
料理というより、侵食の段階表だった。
「わぁ……色、すごいですね!」
安藤が目を輝かせる。
完全に好奇心が勝っている顔だ。
「……あの……辛さは……?」
宮間は椅子を少し引きながら、慎重に尋ねた。
孤独死予防のために深夜ファミレスへ通っているが、命の危機までは想定していない。
「辛い! でも甘い! バランス、たぶんいい!」
「“たぶん”が一番怖いです……」
文月はすでにスプーンを手に取り、興味深そうにスープを覗き込んでいる。
「未知の味覚体験……恐怖と好奇心の境界だね」
「先生、それは哲学で処理していい案件ではありません」
雨露は一応、被害を最小限に抑えるため、スープを少量だけ味見した。
スプーン一杯。
舌に乗せた瞬間、眉がわずかに動く。
「……甘味はありますが、辛味が主導権を完全に握っています」
「え、ほんと?」
サモンは首を傾げる。
「私、もっと辛くしてもいいと思った」
「やめてください」
だが、サモンはもう次の皿を押し出していた。
「じゃあ次、ガパオカレー!」
「名前が融合事故です」
黒唐辛子の山が、宮間の前に置かれる。
「……いただきます……」
覚悟を決めて一口。
次の瞬間、宮間はむせた。
「……っ、から……!」
「水!」
安藤が慌ててグラスを差し出す。
「いい反応!」
サモンは満足そうに頷いた。
「ちゃんと効いてる!」
「効きすぎです」
文月はスープを啜り、ゆっくりと頷く。
「甘味と辛味の二元論……しかし両立は叶わない。これは人生そのものだね」
「……ただ辛いだけです」
雨露はカレー皿をそっと端へ寄せた。
「サモンさん」
「なに?」
「深夜二時です」
「うん」
「ここはファミレスです」
「うん?」
「実験場ではありません」
サモンは少しだけ考え、それから笑った。
「あ、そうだね。私、夜になると楽しくなってしまう」
「自覚はあるのですね」
「あるよ!」
胸を張るサモン。
宮間は汗を拭きながら、小さく笑った。
「……でも……なんか……」
言葉を探して、続ける。
「……楽しい……かも」
安藤はパイを半分に割り、宮間に差し出した。
「甘いので中和しましょ!」
文月はノートに何かを書き込みながら、満足そうだ。
「食が場を作る……文化的だね」
雨露はその光景を一通り見渡し、ため息を一つ。
「……次からは、事前に相談してください」
「わかった!」
サモンは素直に頷く。
「次は、もっと優しい味にする!」
「その“次”が、一番信用できません」
深夜二時。
深夜のファミレスは、秋の新作の余韻と少しの笑いを残しながら、また静かな夜へ戻っていった。
侵食は、完全には止まらない。
ただ、この店の一部として、ゆっくり馴染んでいくだけだった。




