第25話 業務用コーヒーと締切と善意
深夜二時。
ファミレスは、昼間の喧騒が嘘だったかのように静まり返っている。
客は少ない。
静かすぎる店内に、ドリンクバーの業務用コーヒーマシンが、低く唸る音だけを立てていた。
カウンター席の端に、文月が座っている。
メニュー表を開いたまま、何も頼まず、じっと業務用コーヒーを見つめている。
嫌な予感しかしない。
締切が近い文月は、見た目がだいたい崩れる。
今日は特にひどい。
顔は美形のはずなのに、全体的に「追い詰められた人間」の輪郭をしている。
「ねえ、雨露くん」
呼ばれた。
逃げ場はない。
「はい」
仕事用の敬語で返す。
「この業務用コーヒーってさ。人の心をどこまで削れると思う?」
「削る前提なんですね」
「削るよ。だってこれは“飲める最低限”だ」
少し離れたテーブルで、宮間が背中を丸めて座っている。
ガムシロップを三つ並べ、無言で眺めている。
「……でも……」
宮間が、小さく言う。
「この味……どこか、安心するんです……」
文月の目が、ゆっくりと輝いた。
「ほら見て。人は削られながらも、安心を覚える」
「……僕の会社の資料も……だいたい、この味です……」
「業務用ですからね」
即答すると、宮間は静かにうなずいた。
生存確認が一つ、完了した。
そのとき。
「すみませーん!」
店内に、やけに元気な声が響いた。
安藤だ。
やたら明るい。
そして、明らかに何かを知っている顔だ。
「先生!締切、相当ヤバいですよね!」
文月が、ぴくりと肩を震わせた。
「……どうしてそれを?」
「実はですね」
安藤は、さも偶然のように話し始めた。
「来る途中で、スーツの女性が全力疾走してて」
嫌な単語しか並ばない。
「すごい速さで、『文月先生を見ませんでしたか!?』って」
文月は、そっとマグカップを置いた。
「……笹原さんだ」
「はい!未返信が十五件あって、締切が今日で、先生が“深夜に消える習性”があるって!」
「余計な情報まで!」
「善意です!」
善意はだいたい余計だ。
「だからですね!」
安藤はにっこり笑う。
「先生、返信返した方がいいじゃないですか?」
空気が、完全に止まった。
「……雨露くん」
「はい」
「この店、非常口はどこだっけ」
「逃げないでください」
次の瞬間、文月は立ち上がり、ドリンクバーへ向かった。
「業務用コーヒーは、感情を均す」
勝手に理論を作らないでほしい。
「締切とは、このコーヒーのようなものだ」
「苦いってことですか?」
「違う。“逃げ場がない”」
二杯目を注ぐ。
その背中に、安藤がスマホを差し出す。
「先生、返信——」
文月は、猛ダッシュした。
カウンターの影へ滑り込み、雨露の足元に隠れる。
「ちょっとやめてください」
「雨露くん、今、私達一体化してる」
していない。
宮間が、ぽつりと言う。
「……ここで……看取られるなら……悪くないですね……」
「死なないでください」
安藤は慌てて言う。
「えっ!?じゃあ、コーヒーおかわり——」
「やめてください」
善意が、今日も店を壊す。
数分後。
文月は、観葉植物の横で座り込んでいた。
「締切は……人を人でなくす……」
「最初から怪しいです」
雨露は淡々と返す。
安藤はスマホを見て、まだ笑顔だ。
「先生、返信——」
「それだけはダメです」
即答した。
「それをやると、この人、戻ってきませんから」
文月は、業務用コーヒーを見つめて呟く。
「……この味……締切の味だ……」
宮間はマグカップを掲げる。
「……僕の会社も……同じ味です……」
深夜のファミレスは、今日も平和だ。
締切と善意と業務用コーヒーが、静かに世界を削っているだけで。




