第23話 お冷は無料だが思想は有料
深夜二時。
ファミレスは営業しているが、世界はもう閉店している時間だった。
カウンター席に文月が座っている。
珍しく静かだ。
お冷を前に、背筋まで正している。
理由は単純で、鳩山店長がいるからだ。
「雨露くん」
「はい」
「今日は、お冷でいい」
普段なら「水の透明性が自己同一性を侵食する」とか言い出すところだが、今日は違う。
鳩山店長の視界に入る間、文月は“普通の客”を演じる。
その様子を、ドリンクバー前から宮間が見ていた。
「……あの……お冷とドリンクバーって……どちらが……安全でしょうか……」
「安全?」
「孤独死の確率的に……」
答えにくい質問を、平然と投げてくる。
「宮間くん」
文月が、低く落ち着いた声で言う。
「お冷は、何も選ばなくていい。ドリンクバーは、選択を強いられる」
「……選択……」
「人生は選択の連続だよ。でもお冷は、強制的に一択だ」
「……それ、楽ですね……」
安藤が、横から割り込んできた。
「えっ、でもドリンクバーの方が元取れますよ!」
「金額の話じゃない」
「炭酸もありますし!」
「刺激を求めるのは、余裕がある証拠だ」
完全に論争が始まっている。
鳩山店長は、少し離れた場所でそれを聞き、穏やかに口を開いた。
「どちらも、当店の大切なサービスです」
「……ほら、店長は中立だ」
文月は、すぐに引く。
鳩山店長の前では、哲学を振りかざさない。
「マニュアル的には、お冷は“基本”、ドリンクバーは“選択肢”ですね」
「選択肢……」
宮間は、コップを持つ手を止めた。
「……僕……選択肢が多いと……失敗した気がして……」
「大丈夫です」
鳩山店長は、にこやかに続ける。
「選ばなかったものは、失敗ではありません。“今日は選ばなかった”だけです」
宮間は、少しだけ救われた顔をした。
その間、文月は黙ってお冷を飲んでいる。
不自然なほど、静かだ。
やがて鳩山店長の携帯が鳴る。
「……失礼します。少し外しますね」
鳩山店長がバックヤードへ消えた瞬間。
空気が変わった。
「雨露くん」
「嫌な予感がします」
「お冷ってさ」
「出ましたね」
「ドリンクバーに勝ってる点、もう一つある」
「まだやるんですか」
「存在を主張しない」
文月は、グラスを掲げる。
「何味か聞かれない。季節限定にならない。写真もない」
「メニューに載ってませんからね」
「でも、確実に出てくる」
安藤が首をかしげる。
「それ、地味すぎません?」
「地味は、最強だよ」
「……でも……誰も写真撮らないですね……」
宮間が、ぽつりと言った。
「……撮られないものほど……長生きする気がします……」
その発言に、全員が一瞬黙る。
「……まあ」
文月が、軽く笑った。
「ドリンクバーは、映える。お冷は、残る」
そのとき、鳩山店長が戻ってきた。
「お待たせしました」
文月は、即座に背筋を伸ばす。
「いやあ、今日は静かな夜ですね」
「……」
さっきまでの哲学は、どこにもない。
鳩山店長は店内を見回し、満足そうに頷いた。
「では、私はこれで」
帰り際、少しだけ振り返る。
「お冷も、ドリンクバーも。必要な人に、必要な分だけ」
扉が閉まった。
三秒後。
「やっぱりさ」
「やめてください」
「お冷って、人類の最終形態だと思う」
「今すぐ戻ってきてほしいです」
安藤は笑い、宮間は安心したようにお冷を飲む。
深夜のファミレスは今日も、
無料の水と、有料の思想で満たされている。
鳩山店長がいない時間の方が、長い。
それが、この店の真実だった。




