第20話 何もしない日と着信音
連勤明けの休日。
目覚ましはかけていない。制服も洗濯機の奥に押し込み、私服のまま、ただ静かに朝を迎えた。
コーヒーを淹れ、窓を開け、外の音を確認する。特に異常はない。
「……平和」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
休日の予定は決めていない。決めないことが、唯一の予定だった。
本を読むでもなく、動画を見るでもなく、洗濯が終わる音を聞きながら、ただ時間が過ぎるのを観察する。
そのはずだった。
昼過ぎ、スマートフォンが震えた。
《安藤:雨露くん! 今日お休みですよね!?》
雨露は、画面を伏せた。
(……嫌な予感しかしない)
数秒、考えてから返信する。
《雨露:はい。休みです》
すぐに既読がつき、追撃が来た。
《安藤:よかったです!》
その「よかった」に、雨露は何も良くない未来を見た。
《安藤:あの、休日って、何したらいいんですか?》
雨露はしばらく考えた。
そして、極めて真面目に打ち込む。
《雨露:何もしない、が正解です》
数分後。
《安藤:なるほどです!!》
不穏なほど明るい返事だった。
《安藤:じゃあ私、唐揚げ作ります!》
「……違います」
雨露は、思わず声に出して言った。
休日の概念が、根本からずれている。
これ以上会話を続けると、なぜか自分が巻き込まれる未来が見えたため、雨露はスマートフォンを裏返し、外出することにした。
散歩だ。
ただの散歩。
ファミレスとは無関係な散歩。
そう思って歩いていたはずなのに、気がつけば駅前の書店に入っていた。
無意識に、静かな場所を求めた結果だった。
文庫コーナーで適当に一冊手に取り、立ち読みを始める。
締切も哲学も孤独死も、今日は存在しない。
「奇遇だね、雨露くん」
背後から、穏やかな声がした。
雨露は、本を閉じた。
「……先生」
振り返ると、そこには文月がいた。
見た目は相変わらず整っているが、目の奥が少し曇っている。締切前特有の、あの感じだ。
「私服、珍しいね。休日?」
「はい。完全な休日ですので」
距離を一歩、取る。
「今日は勤務外です」
「それは残念だ。君のツッコミがないと、私の思考実験が安定しない」
「安定しなくていいんじゃないですか」
少し崩れた敬語が出る。
文月は気にした様子もなく、本棚を眺めながら言った。
「休日に偶然会うって、物語的に美しいと思わない?」
「思いません」
即答だった。
「今日は何もしない日なんです。なので、先生の哲学は……」
「じゃあ、“何もしない”という行為について考えよう」
「やめてください」
文月は満足そうに頷いた。
「いいテーマだね。人は何もしないとき、本当に何もしていないのか」
「もう帰ります」
雨露が踵を返した、その瞬間。
《安藤:雨露くん! 今、唐揚げ揚げ終わりました!》
通知が鳴った。
雨露は、天井を見上げた。
「……休日とは」
文月が覗き込む。
「おや、安藤くん?」
「はい」
「彼女、休日の過ごし方が独特だよね」
「否定しません」
《安藤:余った油もったいないので、ポテトも揚げました!》
なぜ報告してくるのか分からない。
《安藤:あと、ついでに明日の仕込みも考えました!》
「……休んでください」
小さく呟くと、文月が楽しそうに笑った。
「君、休日でも結局みんなの軸だよ」
「なってません」
「なってるなって」
雨露はため息をついた。
その日の夜。
結局、雨露は近所を一周しただけで家に戻った。
何も起きなかったとは言えないが、何も解決もしなかった。
それでも、ベッドに横になると、不思議と安心感があった。
「……明日から、また深夜」
呟いて、目を閉じる。
雨露の休日は、相変わらず静かで、少しだけ騒がしくて、それでも確かに、休日だった。




