第19話 誰もいない席とおしぼり
深夜二時。
照明はいつもより白く、静かだった。
冷房の音と、厨房の奥で鳴る小さな機械音だけが、夜をつないでいる。
雨露はカウンターの内側で伝票をまとめていた。
目の下にうっすら影がある。
この一週間、雨露は連勤だった。深夜、深夜、深夜。
店の中の狂気も、妄想も、哲学も、すべて通常運転で受け止め続けた結果、脳内のツッコミ回路が、少しだけ摩耗していた。
今日は、静かだ。
そう思った直後だった。
「……あの」
声を潜めるように、宮間が言った。
四人掛けの席を指差している。
「誰も……いないですよね……?」
「はい」
雨露は即答した。
事実だからだ。
「でも……おしぼり、あります……」
確かにあった。
新品のおしぼりが、きちんと二本。
揃えて置かれている。
「……」
雨露は、その席を見た。
そして、何も言わなかった。
「えっ」
宮間が瞬きをする。
「雨露さん……?その……」
「……」
雨露は、無言でグラスを拭いている。
異変に最初に気づいたのは、文月だった。
いつものようにコーヒーを前に、ストローを意味なく回していたが、ふと顔を上げる。
「おや。今日は静かだね、雨露くん」
「そうですね」
返事はある。
だが、いつもならここで何かしら刺さる言葉が来る。
「在庫が減るのでやめてください」とか。
「また現実から逃げてません?」とか。
それが、ない。
「……これは」
文月は、目を細めた。
「沈黙という態度かな」
「ち、沈黙……?」
宮間は不安そうに椅子に座り直す。
「ぼ、僕……何か……死期、近いですか……?」
「近くないです」
雨露は即答した。
ツッコミではなく、業務的な否定だった。
安藤が、配膳台からひょいと顔を出す。
「あれ?なんか今日、空気……違くないですか?」
「安藤くん、気づいたかね」
文月が頷く。
「雨露くんが、世界に対して何も言わない」
「えっ、それって……」
安藤は一瞬考え、
「疲れてるやつじゃないですか?」
正解だった。
だが雨露は、それを訂正もしない。
宮間は、例のおしぼりの席から目を離せずにいた。
「で、でも……このおしぼり……誰が……」
「……」
雨露は、視線を向けるだけで、何も言わない。
「……来たけど、消えた……?」
宮間の声が小さくなる。
「人は、痕跡だけ残して消えることがある」
文月が、急に真面目な声で言う。
「人生も、創作も、だいたいそうだ」
「や、やめてください……」
宮間の顔色が青くなる。
安藤は、素直に席へ近づいた。
「片付けますね!」
そう言って、おしぼりを手に取る。
「……あ」
「?」
「……まだ、冷たいです」
使われていない証拠だった。
「じゃあ……やっぱり……」
宮間がごくりと唾を飲む。
文月は、にこやかに言った。
「この店にはね、たまに“存在だけ置いて帰る客”が来るんだよ」
「先生、それ、ホラーじゃないですか」
安藤が即座にツッコむ。
だが、雨露は、何も言わなかった。
安藤は、ちらりと雨露を見る。
「……雨露くん?」
「……」
返事はあるが、内容がない。
異常だった。
この店において、雨露のツッコミは、重力のようなものだ。
それが消えると、言葉はどこまでも浮いていく。
「……じゃあ」
安藤は、少しだけ声を落とした。
「雨露くん、これ……誰が置いたんですか?」
数秒の沈黙。
雨露は、深く息を吸ってから言った。
「……私です」
全員が固まった。
「え?」
「どういう……?」
「どうして……?」
三人の視線が集まる。
雨露は、淡々と説明した。
「さっき、片付け途中で……置いて……忘れました」
「……」
沈黙。
「……それだけですか……?」
宮間が恐る恐る聞く。
「それだけです」
文月は、しばらく考えた後、微笑んだ。
「なるほど。疲労とは、存在を曖昧にする」
「哲学にしないでください」
雨露は、ようやくツッコミを入れた。
声は少し掠れていたが、それは確かに、いつもの調子だった。
安藤は、ほっと息をつく。
「よかったー。戻ってきましたね」
「……すみません」
雨露は、小さく頭を下げた。
「連勤で……少し……」
「無理しないでください」
宮間が、珍しくはっきり言った。
「僕……ツッコミないと……不安で……」
「それ、重いですね」
雨露は言いながら、ようやく笑った。
深夜のファミレスに、元の静けさが戻る。
誰もいない席には、もう何も置かれていない。
それでも、その夜のことは、少しだけ記憶に残った。
ツッコミが消えると、世界は、思った以上に不安定になる。
そして今日も、深夜のファミレスは、何事もなかったように営業を続けている。




