第18話 氷の音と心臓
深夜二時。
冷房の音と製氷機の低い唸りだけが支配している、
客は少ない。というより、実質二人だった。
「……あの……」
カウンター席で、宮間が小さく手を挙げた。
「お水、おかわり……いただいても……」
「はい」
雨露は淡々と返事をし、グラスを受け取る。新しい氷を落とすと、カラン、と小さな音が鳴った。
「……その音、今の僕の心臓の音みたいで……」
「違います。ただの氷です」
即答だった。
宮間は「そうですよね……」と俯き、グラスを両手で抱え込む。氷が多い。少し多すぎる気もするが、雨露は何も言わなかった。
その様子を、斜め向かいの席から文月がじっと眺めていた。
「いいねえ、氷」
ストローをくるくる回しながら、真顔で言う。
「人はなぜ、溶けるものに安心を覚えるんだろうか、」
「覚えません」
「即答だ」
「即答しますよ。
先生、コーヒーの氷溶けるまでに原稿一本書くとか言ってませんでした?」
「言ったね」
「もう三杯目です」
「氷は、増えている」
「原稿は増えてないですよね?」
「……雨露くん、きみは本当に現実的だ」
「仕事ですので」
安藤は、そのやり取りを聞きながら、厨房のほうをちらちら見ていた。
「サモンさん、まだですか?」
「もう、ちょっと。今、いい感じ」
サモンはフライパンを振りながら答える。
祭りで余ったフランクフルトを輪切りにし、甘辛いソースと香草を絡めている。見た目は完全に“何かよく分からない料理”だが、香りは良い。
「それ、まかないですか?」
「うん。残りもの、もったいない。夜、お腹すく」
「ですよね!ちょっとだけ、味見していいですか!」
「ちょっと、なら」
安藤は“ちょっと”の定義を忘れたかのように、ひょいと一切れつまんで口に放り込んだ。
「あ、おいしいです!」
「よかった」
「……もう一個いいですか?」
「……一個、だけ」
雨露はその光景を見ながら、内心で数を数えていた。
すでに三個目だった。
一方、宮間はグラスの中の氷をじっと見つめていた。
「……あの……」
「なんですか」
「氷って……全部溶けたら……なくなるじゃないですか」
「はい」
「人も……そうなのかなって……」
安藤がぴたりと手を止めた。
「え、急に重くないですか?」
「す、すみません……」
「いや、謝られると余計に……」
文月は、待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「いい問いだね、宮間くん。溶ける、というのは消滅ではなくーーー」
「先生、その話長くなりますよね」
「なる」
「今日はやめてください」
「冷静だなぁ」
宮間は、肩をすくめた。
「最近……会社で……誰とも喋らなくて……」
「……はい」
「で……ここに来ると……みなさん、いるから……」
言葉が途切れる。
誰も、すぐに何も言わなかった。
サモンが、皿に盛ったフランクフルトを差し出す。
「これ、食べる?あったかい」
「あ……ありがとうございます……」
「お腹、空くと……余計、考える」
「……はい……」
宮間は一口食べて、少しだけ表情を緩めた。
「……美味しいです……」
「よかった」
安藤は、満足そうに頷く。
「食べ物って、偉大ですよね!」
「雑な、まとめですね」
雨露が小さく突っ込む。
文月は宮間のグラスを見て、ぽつりと言った。
「氷、まだ溶けてないね」
「……はい……」
「じゃあ、今日はまだ大丈夫」
「え?」
「溶けきる前に、夜は終わりがくる」
「……そう……ですか……?」
「たぶん」
「……たぶん……」
その曖昧さに、宮間はなぜか少し笑った。
「……たぶん、って……いいですね……」
「いいでしょう」
「はい……」
雨露は、カウンターを拭きながら言った。
「慰めになってないですけど」
「深夜からね」
「そうですね」
氷が、かすかに音を立てて溶けていく。
冷房は相変わらず強く、原稿は一行も進んでいない。
それでも、店内は静かで、誰も急いでいなかった。
「……また、来ても……いいですか……」
宮間が、恐る恐る言う。
「どうぞ」
雨露は、業務用の声で答えた。
「……あ、でも……迷惑じゃ……」
「迷惑なら、言いません」
それだけ言って、伝票を置く。
氷は、まだ半分ほど残っていた。
たぶん今夜は、それで十分だった。




