第10話 平和とシュークリーム
深夜二時過ぎ。
シャッター商店街の奥で営業を続けるファミレスは、驚くほど静かだった。
スプーンは投げられていない。
ストローは曲げられていない。
観葉植物は、ただの植物としてそこにある。
「……平和ですね」
カウンターで備品を整理しながら、雨露が言った。
「平和です!」
安藤は元気よく頷いた。
床に落ちているものもなく、空中を警戒する必要もない。
「今日、心臓が通常運転です」
宮間はコーヒーを両手で抱えながら、小さく息を吐いた。
「孤独死の予感もしません」
「それは何よりです」
雨露は淡々と答えた。
この平和の理由は、明確だった。
「文月先生、いないですね」
安藤が言う。
「はい。現在、笹原さんに捕獲されています」
「捕獲……」
「締切案件です」
宮間は神妙な顔になった。
「……今頃、泣きながら書いてますね」
「泣きながら書くと、筆が進むらしいですよ」
「それ、人体実験じゃないですか」
その時、店のドアが静かに開いた。
「こんばんは」
柔らかい声と共に入ってきたのは、鳩山店長だった。
恰幅のいい体に、穏やかな笑顔。
深夜には珍しい来訪者だ。
「あ、店長!」
「お疲れさま。今日は静かだね」
雨露は一瞬だけ考え、正確に答えた。
「原因が一名不在です」
「文月さんかな」
「はい!」
安藤が勢いよく説明を始めた。
「締切前で暴走してて、紙ナプキンとか氷とか存在とか投げ始めて、それで笹原さんが――」
「なるほど」
鳩山店長はすべてを受け止めるように頷いた。
「それで今日は、平和なんだね」
「はい。異常なほど」
鳩山店長は紙袋を持ち上げた。
「差し入れを持ってきたんだ。シュークリーム」
安藤の目が輝いた。
「えっ、いいんですか!」
「今日はお客さんも少ないしね」
店内を見回す。
「……宮間くんだけだね」
「はい。いつも通り、生き延びています」
「それは良かった」
鳩山店長は穏やかに笑った。
「じゃあ、一緒にコーヒーとシュークリーム、どうかな」
その提案に、誰も反対しなかった。
カウンターに並べられたシュークリームは、どれも綺麗で、爆発の気配がない。
「こういうの、久しぶりですね」
安藤が言った。
「誰も実験しない夜は貴重です」
雨露はコーヒーを注ぎながら言った。
宮間はシュークリームを一口食べて、目を細めた。
「……甘いですね」
「安心の味だね」
鳩山店長は、ゆっくりコーヒーを飲んだ。
「文月先生がいないと、店が落ち着きますね」
「普段が異常なだけです」
「でもね」
鳩山店長は言った。
「いないと、ちょっとだけ寂しくなるものですよ」
安藤は頷いた。
「確かに……なんか、物足りないです」
「それは錯覚です」
雨露は即座に否定した。
店内には、静かな時間が流れていた。
スプーンはカップに収まり、誰も床を見張っていない。
その頃。
別の場所で、文月は泣いていた。
「うっ……締切が……思想が……」
「泣きながらでも、手は動かしてください」
笹原は隣で、淡々と時計を見ている。
「先生が逃げた分だけ、私の睡眠時間が削れてます!」
「ここは牢獄だ……!」
キーボードが鳴る。
涙が落ちる。
それでも文字は増えていく。
「……ファミレスに、帰りたい……」
「書き終わったらです」
その約束だけが、文月を支えていた。
深夜ファミレスでは、最後の一口が食べ終わっていた。
「……平和でしたね」
宮間が言った。
「はい。でも、長くは続きません」
雨露はゴミを片付けながら答えた。
「先生が戻ってきたら、また通常営業です」
安藤は少し笑った。
「それまで、大事にします、この平和」
鳩山店長は立ち上がり、静かに言った。
「じゃあ、あとは任せるね」
ドアが閉まり、店内は再び静寂に包まれた。
深夜ファミレスは、今日も営業を続けている。
嵐の前の、穏やかな夜だった。




