第1話 ドリンクバーと労働環境
シャッター商店街の片隅で、ひっそりと灯っているファミレスがある。
観葉植物が微かに揺れている。エアコンの風か、それとも、夜の気配そのものが触れているのかは分からない。店内はモダンで落ち着いていて、静かすぎて、逆に落ち着かない。
カウンター席の端に、端正な顔をした男が座っていた。
「ねえ、雨露くん。このコーヒー、やっぱり美味しくないと思わないかい」
文月先生はドリンクバーのコップをじっと見つめながら、真剣な顔で言った。
その向かいで、雨露はストローを補充している。黙々と、一定のリズムで。
「業務用マシンなんで。美味しさより、安定供給重視です」
「ほら、そこだよ。まさに社会構造だと思わないか」
文月先生はコップを掲げた。
「個性を削ぎ落とし、均一化された味。誰もが『まあ、こんなものか』と受け入れてしまう。それがドリンクバーであり、我々の生きる社会なんだ」
雨露は最後の一本のストローを詰め、蓋を閉めた。
「先生、それ、ただのまずいコーヒーの言い訳です」
「違う。これは哲学だ」
文月は少し傷ついた顔をしたが、すぐに大人っぽく咳払いをした。
「人はなぜ、不味いと分かっていても、ドリンクバーに手を伸ばすのか。そこには“選択しているつもりになれる自由”がある」
「コーヒーか、カフェオレか、コーラか、ですよね」
「そう。だが実際は、どれを選んでも深夜二時の孤独は薄まらない」
「先生、締切も薄まってませんよ」
その瞬間、文月先生の肩がぴくりと跳ねた。
ちょうどその時、入り口のドアベルが控えめに鳴った。
入ってきたのは、ブラック企業勤めの常連、宮間だ。
スーツ姿で、少し疲れ切った顔をしている。座る前から、もう「すみません」と言いそうな空気をまとっていた。
「いつもの席でいいですか……」
「どうぞ」
雨露は淡々と答え、温かいおしぼりを差し出す。
文月先生は宮間をじっと見つめ、顎に手を当てた。
「ねえ雨露くん。彼は、なぜ毎晩ここに来るんだい」
「孤独死したくないからです」
即答だった。
宮間は一瞬だけ目を伏せ、ガムシロップを手に取った。
「ここに来てると……人の気配があって……」
彼はガムシロップを一つ、二つ、三つと並べる。
「今日は三件進捗がある、って思えるんです」
「それ進捗じゃなくて糖分ですよ」
雨露が言うと、宮間は小さく笑った。
笑ったこと自体に、少し驚いているようだった。
「深夜ファミレスはね、孤独死の予防施設なんだよ」
文月は突然、真顔で言った。
「人は誰かに見られていると、生き延びてしまう。たとえそれが、業務用コーヒーと辛辣な店員でも」
「先生、それ論文にしたら怒りますからね」
その時だった。
入り口のベルが、今度ははっきりと鳴った。
「文月先生」
凛とした女性の声が響いた、
文月先生の編集担当の笹原さんだ。
パンツスーツ姿で、書類を抱え、息ひとつ乱れていない。
「ここだと思いました」
「待ってくれ!これは違う!」
文月先生は立ち上がり、慌てて雨露の足元に隠れようとしたが、すぐに見つかった。
「日本の労働環境と孤独死を考察していたんだ!
この宮間くんを救う方法を、雨露くんと真剣にーー」
「先生」
笹原さんは、にこりともせずに言った。
「それ、締切を過ぎてからでも、やれる話ですよね」
「美学だ!」
「納期です」
短いやり取りのあと、文月先生はあっさり連行された。
観葉植物が、少しだけ揺れた。
店内に、また静けさが戻る。
宮間はしばらく黙ってから、小さく言った。
「……僕も、締切があればよかったんですかね」
雨露は新しいコーヒーを注ぎ、宮間の前に置いた。
「温かいのにしときました」
「ありがとうございます」
宮間はそれを両手で包み、少しだけ安心した顔をした。
深夜二時。
不味くはないが、特別美味しくもないコーヒー。
それでも、このファミレスの灯りは、今夜も誰かを生き延びさせている。
雨露はカウンターの向こうで、淡々と次の業務に戻った。
孤独も、哲学も、締切も。
とりあえず、朝まではここで保留だ。




