第9章: 偽りの勝利
海斗がアジトに戻った時、仲間たちの視線は冷たかった。彼が単身リキの元へ向かったこと、そしてその顔に浮かぶ苦悩の色から、彼らが最悪の事態を想像していることは明らかだった。
「どうだったんだ、海斗」サイトウが代表して問い詰めた。「奴らに、魂でも売ってきたのか」
「取引をした」
海斗は正直に話すしかなかった。リキとの悪魔の契約。他のグループを陥れる見返りに、端末を起動させるチャンスを得たこと。
案の定、仲間たちは激しく反発した。
「ふざけるな!」アキラが壁を殴りつけた。「俺たちは誰かを犠牲にするために集まったんじゃない! あんたは結局、奴らと同じじゃないか! 俺たちまで奴らと同じ人殺しにする気か!」
「他に方法がなかったんだ!」海斗も叫んだ。「このまま飢え死にするか、奴らに狩られるのを待つか、それともこの手を汚してでも外の世界に助けを求めるか! 俺は三つ目を選んだ! それが間違いだと言うのか!」
議論は平行線を辿った。共同体に発足以来最大の亀裂が入った。サイトウは恐怖に顔を青くし、他のメンバーはただ下を向いている。しかし彼らに残された時間はなかった。リキが提示した作戦決行の期限は三日後だった。最終的に、彼らは海斗の計画に従うことを苦渋の思いで受け入れた。それは積極的な同意ではなく、他に選択肢がないという絶望的な諦観からだった。
作戦当日。彼らの役割は施設のメンテナンス用ドローンを誤作動させ、パニックを引き起こすこと。直接手を下すわけではない。そう自分たちに言い聞かせながら。計画は恐ろしいほどスムーズに成功した。暴走したドローンが引き起こした混乱に乗じて、待ち伏せていたリキの部下たちが敵対グループをあっという間に制圧していく。海斗たちはその光景を遠くから、吐き気をこらえながら見つめていた。鈍い打撃音、短い悲鳴。自分たちの行為がこの結果を招いた。その事実は鉛のように重く、彼らの良心にのしかかった。
「ご苦労だったな、ネズミ共」
リキは約束通り、彼らを中央変電施設へと招き入れた。
「約束通り、一時間だ。好きにしろ。だが、余計な真似をしたらどうなるかわかってるな?」
リキは部下たちを引き連れて施設から出ていった。残されたのは海斗たち五人と、巨大なタービンの唸りだけだった。
「急げ! リキが戻ってくるまで時間がない!」
彼らは急いで旧式の端末を変圧器のメンテナンス用ポートに接続した。サイトウが震える手で端末のスイッチを入れる。しかしスクリーンは暗いままだ。
「クソッ、起動しない!」
「パスワードだ。旧式の、アナログなロックがかかっている!」海斗は、アナリストだった頃の知識を総動員してコンソールを操作する。「サイトウさん、端末の製造番号はわかるか!?」
「ああ、裏に書いてある!」
外で見張りをしていたアキラが叫ぶ。「おい、リキの部下の一人がこっちに向かってくるぞ!」
絶望的な状況の中、海斗はパスワードのアルゴリズムを推測し、いくつかのパターンを試した。そして三度目の失敗の後、ついに端末の小さなスクリーンがかすかな光を放って起動した。
「やった……!」
アキラが歓喜の声を上げる。他人を売った罪悪感も、この瞬間だけは希望の光の前に薄らいで見えた。彼らはこの鉄壁の牢獄に、外の世界へと通じる小さな窓を開けることに成功したのだ。
海斗は端末を操作した。通信可能な相手を探す機能があった。公共の報道機関、人権団体……いくつかの宛先が表示される。彼はその全てに定型文の救難信号を送った。『我々は特別区域の囚人である。この区域は人道的に運営されていない。調査と救助を求める』。そして、自分たちが隠し持っていた小型記録装置で撮影した、区域内の暴力や死体が放置されている映像を添付ファイルとして送信した。
信号は確かに送信された。スクリーンの送信完了メッセージが、彼らの勝利を告げていた。
その夜、彼らはアジトでささやかな祝宴を開いた。リキから与えられた本物のリンゴを、五等分に切り分ける。何年ぶりかに口にする本物の果物の甘酸っぱい香りが、倉庫に満ちた。
「ここを出たら、俺、もう一度パンを焼きたいんだ」アキラが照れくさそうに言った。「ばあちゃんがよく作ってくれた、あの、ちょっと焦げたパンをな」
仲間たちはそれぞれのささやかな夢を語り合った。それは涙が出るほど温かい時間だった。自分たちの力で未来を掴み取ったのだ。海斗は初めてこの区域に来てから、本当の意味での希望を感じていた。彼は仲間たちにとっての英雄だった。
しかし、その希望が脆くも崩れ去るのに時間はかからなかった。
端末で外部に救難信号を送ってから三日が過ぎた。だが区域には何の変化も訪れなかった。調査団が来る気配も、システムに異常が発生する様子もない。彼らの送ったメッセージは、まるで深海に投げ込まれた小石のように何の波紋も広げなかった。仲間たちの間に少しずつ不安と焦りの空気が広がり始めていた。
そして運命の日の朝が来た。
いつものように食堂へ向かうと、入り口の壁に設置されたディスプレイが赤い警告メッセージを表示していた。
『全居住者へ通告。……本日から全居住者への食料配給量を、規定値の70%に削減します』
食堂は水を打ったように静まり返った。誰もが信じられないという顔で、ディスプレイの文字を凝視している。食料が三割も減らされる。この奪い合いが常態化している世界で、それは死刑宣告にも等しかった。
静寂。そして誰かの囁きがゆっくりと広がっていく。「非効率な集団行動…?」。やがてその囁きは一つの方向へと収束し、明確な敵意となった。
「あいつらだ……。あいつらが勝手なグループなんぞ作ったせいだ!」
その言葉は悪意に満ちた種火だった。それは行き場のない怒りと飢えへの恐怖に駆られた囚人たちの心に、瞬く間に燃え移った。そうだ、あいつらのせいだ。
憎悪に満ちた視線が一斉に海斗たちに突き刺さる。昨日まで彼らを遠巻きに見ていただけの者たちが、今や自分たちの不幸の原因として明確な敵意を向けていた。
リキの姿も食堂の隅に見えた。彼は腕を組んで満足げにその光景を眺めている。彼の唇が歪んで笑みの形を作っているのを、海斗は見逃さなかった。全ては計算通り。彼の目的は初めからこれだったのだ。海斗たちを利用して敵を潰し、用が済めばAIのシステムを利用して、彼らを全ての囚人の共通の敵に仕立て上げる。実に効率的なやり方だった。
「どうしてくれるんだ!」「食い物を返せ!」
囚人たちがじりじりと海斗たちを取り囲んでいく。彼が築き上げたはずの安全な「巣」は、内側から崩壊を始めていた。いや、外側から、システムそのものによって巧みに破壊されたのだ。
海斗は震える仲間たちの中心に立ち、ゆっくりと周囲を見回した。憎しみに歪んだ何十もの顔。飢えに駆られた獣の目。彼が信じた希望は偽りだった。彼は英雄などではなかった。ただAIの手のひらの上で踊らされ、仲間たちを、そして自分自身を、より深い絶望へと導いただけの愚かな道化だった。
壁の向こうの沈黙した世界。そして壁の内側で牙を剥く飢えた人間たち。四面楚歌。その言葉が、海斗の頭の中で冷たく響いていた。




