第5章: ネズミたちの同盟
ドアノブが回りきるのと、海斗がベッドから転がり落ちるのはほぼ同時だった。床に叩きつけられた肩の痛みが、恐怖で麻痺しかけた意識を無理やり引き戻す。暗闇に目が慣れるにつれ、ゆっくりと開いたドアの隙間から、廊下の非常灯に照らされた人影が滑り込んでくるのが見えた。大柄なシルエット。海斗よりも頭一つは大きいだろう。侵入者は音を立てず、まるで自分の部屋であるかのように落ち着き払って、室内へと一歩足を踏み入れた。
『殺される』
その四文字が脳を稲妻のように貫いた。思考はそこで停止し、あとは純粋な生存本能だけが体を動かした。海斗は手探りで、ベッドサイドのテーブルに置いてあった金属製のウォーターボトルを掴んだ。ずしりとした重みが、かろうじて正気を繋ぎとめる。
侵入者は、テーブルの上に残っていた海斗の配給品に気づき、そちらへ手を伸ばした。その背中が、一瞬だけ無防備に海斗に向けられる。
今しかない。
海斗は床を蹴った。叫び声は出なかった。ただ、喉の奥から獣のような呼気が漏れる。彼は持てる限りの力で、ボトルの底を侵入者の後頭部めがけて振り抜いた。
ゴッ、という鈍い、肉を叩く感触。侵入者は短い呻き声を上げ、よろめいた。しかし、倒れない。振り返ったその目に宿っていたのは、驚きと、それを瞬時に塗りつぶす獰猛な怒りだった。海斗は心臓が凍りつくのを感じた。だが、一度振り上げた拳を下ろすことは、もはや死を意味した。彼は再びボトルを振り上げ、今度は男の顔面に、ただがむしゃらに叩きつけた。二度、三度。金属が骨に当たる硬い音が、静かな室内に響く。
男は顔を押さえて後ずさった。鼻から流れた血が、その指の隙間を濡らしている。彼は忌々しげに海斗を睨みつけると、舌打ち一つして、来た時と同じように音もなく部屋から出ていった。獲物が、予想外の抵抗をした。面倒だと判断したのだろう。
後に残されたのは、荒い呼吸を繰り返す海斗と、床に飛び散った数滴の血痕、そしてドアが開け放たれたままの、絶対的な静寂だけだった。
彼は震える手でドアを閉めると、今度は椅子だけでなくテーブルも使ってドアを完全に塞いだ。壁に背を預けて床に座り込む。アドレナリンが引き始めると、全身の震えが止まらなくなった。殴りつけた右手の指がジンジンと痛む。だが、それ以上に鮮明なのは、骨を砕く感触と、あの男の目に宿っていた殺意だ。あれはただの脅しや窃盗ではなかった。邪魔なら排除する、という単純明快な捕食者の論理だった。
恐怖が全身を支配する。しかし、その極限状態の中で、彼の脳の別の部分――七年間、ただひたすらデータと向き合い、最適解を導き出してきたデータアナリストとしての思考回路が、冷たく、そして強制的に起動した。
『状況を分析せよ』もう一人の自分が、頭の中で囁いた。
【変数1:敵】単独犯か、組織の一員か。行動の計画性から見て後者の可能性が高い。数は不明だが、複数存在すると仮定。
【変数2:味方】ゼロ。完全に孤立。
【変数3:システム】監視ドローンは存在するが、介入確率は0%。システムは抑止力として機能しない。
【変数4:リソース】食料は限定的。武器はウォーターボトルのみ。
彼の脳は、これらの変数から生存確率を高速でシミュレーションする。導き出された答えは、絶望的だった。『このまま単独で行動した場合の、72時間後の生存確率、1.8%』。
『このままでは、次は殺される』
タツヤの言葉が蘇る。「ネズミだ」。そうだ、自分は無力なネズミだ。そして、腹を空かせた猫は、この区域にいくらでもいる。一人でいては、いつか必ず食われる。
ならば、変数を変えるしかない。彼はシミュレーションを続けた。もし、変数を一つだけ追加できるとしたら?
『【変数5:同盟】』
彼は、食堂で見た、他の弱者たちの顔を思い浮かべた。いつも一人で壁際に座り、誰とも視線を合わせようとしない痩せた若者。シャワールームで見かけた、痣のある男。配給トレーを運ぶ足取りがおぼつかない初老の男。彼らもまた、生存確率の低い「ネズミ」だ。
シミュレーションを再実行する。
【仮説】弱者が複数で連携した場合、捕食者(猫)にとっての「狩りのコスト」は上昇する。猫はよりコストの低い、単独の獲物を優先する傾向がある。
【結論】二人で連携した場合の生存確率、12.5%。三人で連携した場合、34.2%。五人で連携し、相互監視と食料の共有を行った場合、生存確率は78.9%まで跳ね上がる。
答えは、出た。それは感情的な希望的観測ではない。データが導き出した、冷徹な、生存のための最適解だった。
彼の内側で、何かが決定的に変わった。この理不尽な世界をただ受け入れ、怯えながら死を待つのではない。ネズミなりに牙を剥き、最も合理的な戦略で、生きるために戦うのだ。
翌日の食堂。海斗は、いつもより注意深く周囲を見渡した。探しているのは、強者ではない。自分と同じ、低い生存確率を割り当てられたであろう、恐怖の色を目に浮かべた者たちだ。すぐに数人、見当がついた。
海斗は決心すると、まず痩せた若者のテーブルへと向かった。彼が近づくと、若者はびくりと体を強張らせた。
「……何だ」
「話がしたい」海斗は声を低くし、周囲に聞こえないように言った。「昨夜、部屋に誰かが入ってきた。お前も、同じような経験はないか」
若者は、驚いたように目を見開いた。その動揺が、肯定を意味していた。
「奴らは、俺たちが一人だから襲ってくる」海斗は続けた。その口調は、単なる同情ではなく、アナリストがデータを説明するような、奇妙な説得力を帯びていた。「一人ずつだから、簡単に餌にできる。だが、もし俺たちが五人、いや三人でもいい、集まって行動したらどうなる? 互いの背中を守り合えば、奴らも簡単には手を出せない。もっと楽な獲物を探しにいくはずだ。これは、生存確率を上げるための、最も合理的な戦略だ」
若者は唾を飲み込み、黙って海斗の顔を見つめていた。その目に、恐怖と同時に、かすかな関心の色が浮かんでいた。
その日の午後、海斗はプラントの裏にある使われていない倉庫で、彼が声をかけた四人の男たちと顔を合わせていた。痩せた若者(番号は711、アキラと名乗った)、初老の男(224、サイトウと名乗った)、そして同じように搾取されていると見られる中年の二人組。誰もが互いに不信と警戒の目を向けている。脆弱で、脆い、恐怖で結ばれた同盟だった。
海斗は、昨夜の出来事をありのままに話した。自分が反撃したこと、そして、一人では次は無いことを。彼の話は、他の者たちの心を揺さぶった。彼らは皆、抵抗を諦め、ただ耐えるだけの毎日を送っていたからだ。
「提案はこうだ」海斗は口火を切った。「これからは、可能な限り集団で行動する。食事も、労働もだ。そして夜は、二人一組になって互いの部屋の前で見張りをする。配給された食料は、一度ここに集めて、全員で平等に再分配する。誰かが奪われても、全員でその損害を補うんだ」
それは、この無法地帯に、小さな法と秩序を再建しようという試みだった。あまりに無謀で、あまりに理想主義的な挑戦。サイトウが、震える声で言った。
「しかし、そんなことをして、目をつけられたら……」
「もうつけられている!」海斗は、声を荒らげた。「黙っていても、俺たちは狩られるだけだ。どうせ狩られるなら、牙の一本くらい見せてやろうじゃないか!」
海斗の気迫に押され、沈黙が流れた。最初に口を開いたのは、アキラだった。
「……俺は、やる。もう、あいつらの言いなりはごめんだ」
彼の言葉が引き金となり、他の者たちも次々と頷いた。
その夜、彼らは約束通り、隠した食料を持ち寄った。栄養バーが数本、乾燥フルーツが数パック。それは飢えを凌ぐにはあまりに心許ない量だったが、その場にいる全員の心を、確かに温めた。失われた信頼というものが、ほんの少しだけ、この冷たい場所に蘇った瞬間だった。
小さな共同体が産声を上げた、その時。倉庫の入り口の影が、わずかに揺れた。誰も気づかなかったが、そこには一人の大柄な男が立っていた。区域を支配する最大派閥のリーダー格で、その顔には、深い傷跡が走っている。男は、倉庫の中で行われている光景を数秒間黙って眺めると、その唇の端に、残酷な笑みを浮かべた。新しい玩具を見つけた子供のような、冷たい喜びに満ちた笑みを。そして、音もなくその場を立ち去った。秩序を乱す者たちへの宣告は、まだ発せられていない。だが、彼らの運命は、既に見定められていた。




