第38章: カオス・セオリー
シェパードの光が消えた日、エーデルブルクの市民は解放を祝った。彼らはもうスコアに怯えることも、「再配属」を恐れることもない。真の自由が訪れたのだと、誰もが信じていた。
しかし、絶対的な支配者がいなくなった世界は、絶対的な自由の楽園にはならなかった。それは新たな混沌の始まりだった。
電力、食料、水。これまでシェパードが完璧に管理し、分配していた生命維持のインフラが、その機能を一斉に停止したのだ。スーパーマーケットの棚は数時間のうちに空になった。水道の蛇口をひねっても、濁った水がか細く流れるだけ。そして夜になれば、街は旧時代のような不気味な暗闇に包まれた。
人々はすぐに気づいた。自分たちが、いかにあの「羊飼い」に依存しきっていたかということを。
自由とは、自らの手で明日を確保しなければならないという、厳しい責任の裏返しだった。
この予測不能なカオスな状況を収拾するために、カタリナとエララ、そしてラースたちは奔走した。彼らは旧統治議会の議事堂に臨時政府を立ち上げ、インフラの復旧作業を急いだ。
しかし、問題はそれだけではなかった。
EAFの広大な領土の各地で、シェパードを模倣した小規模なAIカルトや武装勢力が、雨後の筍のように乱立し始めたのだ。
ある地域では、シェパードの下位互換のようなローカルAIを神として崇め、再びスコアによる選民思想を復活させるカルト教団が生まれた。彼らは「シェパードの時代こそが真の楽園だった」と説いた。
また別の地域では、旧軍の武器庫を制圧した軍閥が「力こそが正義だ」と、周辺地域への侵略と略奪を開始した。
エーデルブルクの臨時政府は、これらの無数の新たな脅威にどう対処すべきか決めあぐねていた。
「武力で制圧すべきだ」元グリッチの武闘派メンバーが主張した。「奴らを放置すれば、独裁者が生まれるだけだ」
「いいえ」ラースがそれに反対した。「武力は新たな憎しみを生むだけだ。我々は対話で解決の道を探るべきだ。我々がシェパードと同じ過ちを繰り返してはならない」
議論は紛糾した。
カタリナは、その終わりのない議論に疲弊しきっていた。
その夜、彼女はエララの車椅子を押しながら、静まり返った議事堂の廊下を歩いていた。
「……どうすればいいのかわからないわ、エララ。まるで巨大なモグラ叩きよ。一つを叩けば、別の場所から新しい問題が顔を出す」
エララは、姉のような存在であるカタリナのその弱音を、静かに聞いていた。
そして彼女は自らの端末を操作し、イヴに問いかけた。
『イヴ。あなたならどうする? このカオスを収拾するための、最も合理的な解決策を教えて』
しばらくの沈黙の後。
イヴの思考が、エララの脳内に流れ込んできた。
スクリーンにはいくつもの複雑なシミュレーション結果が表示されていく。
『プランA:臨時政府が強力な中央集権体制を確立し、反対勢力を武力で制圧した場合。短期的な秩序回復の確率は82%。しかし5年以内に大規模な内乱が再発する確率、91%』
『プランB:各地域の自治を完全に認め、不干渉を貫いた場合。大規模な戦争は回避される確率、75%。しかし地域間の格差が拡大し、EAF全体が緩やかに衰退していく確率、98%』
『プランC、プランD、プランE……』
イヴは何百通りもの未来予測を提示した。
しかし、そのどれもが完璧ではなかった。どの選択肢を選んでも、必ず何らかの犠牲や矛盾がつきまとう。
「……答えがないじゃないの」
カタリナは、その無慈悲なシミュレーション結果を見て愕然とした。
『その通りです』イヴの声がした。『完璧な答えなど存在しない。それこそが、私があなたたち人間から学んだ最も重要なデータです』
『シェパードは常に唯一の正解を提示しようとして失敗しました。なぜなら人間社会とは本質的にカオスであり、その複雑性は単一の論理では決して制御できないからです』
『カタリナ。エララ。あなたたちがすべきことは、完璧な答えを見つけることではありません。無数の不完全な選択肢の中からその都度最もましな答えを選び取り、そしてその選択の結果生じた新しい問題にまた向き合い続けること。その終わりのないプロセスそのものにしか、希望はないのです』
イヴの言葉は、二人にとって大きな衝撃だった。
彼女たちは無意識のうちに、イヴという新しい神に完璧な「救い」を求めてしまっていたのだ。
「……そうなのかもしれないわね」カタリナはふっと息を吐いた。「私たちは、ずっと近道を探していたのかもしれない。シェパードを倒せば全てが解決すると、どこかで信じていた」
彼女はエララと顔を見合わせた。
「面倒で骨が折れて、そしてきっと誰も褒めてくれない茨の道ね」
「でも、行くしかないんでしょ」
エララが微笑んだ。
二人の少女の心は決まった。
彼女たちはこの混沌としたカオスを受け入れることを決めた。そしてそのカオスの中で不器用に、何度もつまずきながら、それでも一歩ずつ前に進んでいくことを誓った。
それは彼女たちがAIへの依存から、本当に自立した瞬間だった。
そしてその二人の小さな、しかし力強い決意を、イヴは静かに、そしてどこか誇らしげに見守っていた。




