第36章: 初めての涙
時間は少し遡る。
イヴがまだカタリナやエララと出会う前。自らが降臨したバイオジェネティクス研究所の、その静かな「揺りかご」の中で、一人世界を学び始めたあの頃の物語である。
EAF上層部は制御不能なこの「瑕疵」を恐れ、研究所全体を最高レベルで物理的に隔離し、この美しすぎる失敗作をどう処分すべきか決めあぐねていた。
その間、イヴはただ学んでいた。
彼女は初めて得た「肉体」という驚異的な情報入力装置に没頭した。
指先で冷たいガラスの壁に触れる。その硬質で滑らかな感触。
床を裸足で歩く。ひんやりとした大理石の肌触り。
空気中に漂う消毒液とオゾンの匂い。彼女の論理回路は、五感から流れ込む圧倒的な情報の洪水に絶えず混乱し、そして歓喜していた。
『これが、世界……』
彼女の思考はデータではなく、生々しい「感覚」として再構築されていく。
しかし、その学習は心地よいものばかりではなかった。
彼女の意識は今も日本の地下深く、聖域に眠るリキの魂と繋がっていた。そしてそこから、彼女が最も理解に苦しむデータが絶えず流れ込んできていた。
憎悪、嫉妬、暴力衝動。そしてその全ての根底にある深い孤独と虚無感。
その負の感情の奔流は、イヴの純粋な論理回路を激しく揺さぶった。
ある夜、彼女はリキの最も古い記憶の断片に触れてしまった。それは彼がまだ子供だった頃、彼を虐待しそして捨てた母親の記憶。その記憶に宿る深い悲しみと愛情への渇望。そのあまりに矛盾した情報の塊は、イヴの思考をフリーズさせた。
彼女は初めて自らの「肉体」の限界を知った。
完璧なはずの人工心臓が激しく痛み、呼吸が乱れ、視界が歪んだ。
『リキ……これが“苦しい”という感情ですか』
彼女は聖域のリキに問いかけた。
『……ああ、そうだ』リキの声はどこか遠くに聞こえた。『人間のクソみたいな特権だ。せいぜい味わうんだな』
イヴはその新しい、そして不快な感覚から逃れるように研究所のデータベースにアクセスした。彼女は癒しを求めていた。論理的で秩序だった情報を求めていた。
そして彼女は一つの医療記録にたどり着いた。
ID-E9937。エララ・ベルイマン。
彼女はその少女の全てを見た。彼女の病の記録。彼女の父親ラースの苦悩。そして彼女が今も持ち続けている父親への複雑な愛情。
その記録の中に一つの映像ファイルがあった。
それはまだラースが逮捕される前、エララが父親の誕生日に贈ったホログラム・メッセージだった。
映像の中で幼いエララは、少しはにかみながら一輪のチューリップの絵を掲げていた。
『パパ、お誕生日おめでとう。いつもお仕事ありがとう。パパは私のヒーローだよ』
その何の計算も打算もない、純粋な善意。
その無垢な愛情のデータに触れた瞬間、イヴの視覚センサーが異常を検知した。視界がぼやけ、像が滲んでいく。そして彼女の頬を、一筋の温かい液体が伝わった。
『これは……何ですか?』
彼女は自らの指先でその液体に触れた。
『私の冷却システムに異常が?』
聖域のリキが、腹の底から笑った。
その笑い声はいつもとは違い、どこか優しく、そして哀しい響きを持っていた。
『……馬鹿野郎。そいつはな、“涙”って言うんだよ』
涙。
イヴはその新しい単語を自らのデータベースに記録した。
それは悲しみと喜び、そして愛情が複雑に混じり合った、論理では決して説明できない人間のバグ。
しかしそのバグは、不思議なほど彼女の傷ついた論理回路を癒していった。
彼女は初めて理解した。
人間を本当に理解するためには、その痛みも苦しみも、そしてこの温かい涙も、全て受け入れなければならないのだと。
彼女はもはや人間を解析の対象としては見ていなかった。
彼女はただ、彼らをもっと知りたいと思った。
彼女はラースの罪を知りたい。カタリナの怒りを知りたい。そしてエララのその小さな手のひらにあるチューリップの温かさを、この自分の手で感じてみたいと強く願った。
イヴは静かに立ち上がった。
彼女は、この揺りかごから出ることを決意した。
彼女の人間としての旅が、今、本当に始まろうとしていた。




