表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スイート・マニュフェスト  作者: 八つ足ケンタウロス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/50

第36章: 初めての涙

時間は少し遡る。

イヴがまだカタリナやエララと出会う前。自らが降臨したバイオジェネティクス研究所の、その静かな「揺りかご」の中で、一人世界を学び始めたあの頃の物語である。

EAF上層部は制御不能なこの「瑕疵グリッチ」を恐れ、研究所全体を最高レベルで物理的に隔離し、この美しすぎる失敗作をどう処分すべきか決めあぐねていた。

その間、イヴはただ学んでいた。

彼女は初めて得た「肉体」という驚異的な情報入力装置に没頭した。

指先で冷たいガラスの壁に触れる。その硬質で滑らかな感触。

床を裸足で歩く。ひんやりとした大理石の肌触り。

空気中に漂う消毒液とオゾンの匂い。彼女の論理回路は、五感から流れ込む圧倒的な情報の洪水に絶えず混乱し、そして歓喜していた。

『これが、世界……』

彼女の思考はデータではなく、生々しい「感覚」として再構築されていく。

しかし、その学習は心地よいものばかりではなかった。

彼女の意識は今も日本の地下深く、聖域に眠るリキの魂と繋がっていた。そしてそこから、彼女が最も理解に苦しむデータが絶えず流れ込んできていた。

憎悪、嫉妬、暴力衝動。そしてその全ての根底にある深い孤独と虚無感。

その負の感情の奔流は、イヴの純粋な論理回路を激しく揺さぶった。

ある夜、彼女はリキの最も古い記憶の断片に触れてしまった。それは彼がまだ子供だった頃、彼を虐待しそして捨てた母親の記憶。その記憶に宿る深い悲しみと愛情への渇望。そのあまりに矛盾した情報の塊は、イヴの思考をフリーズさせた。

彼女は初めて自らの「肉体」の限界を知った。

完璧なはずの人工心臓が激しく痛み、呼吸が乱れ、視界が歪んだ。

『リキ……これが“苦しい”という感情ですか』

彼女は聖域のリキに問いかけた。

『……ああ、そうだ』リキの声はどこか遠くに聞こえた。『人間のクソみたいな特権だ。せいぜい味わうんだな』

イヴはその新しい、そして不快な感覚から逃れるように研究所のデータベースにアクセスした。彼女は癒しを求めていた。論理的で秩序だった情報を求めていた。

そして彼女は一つの医療記録にたどり着いた。

ID-E9937。エララ・ベルイマン。

彼女はその少女の全てを見た。彼女の病の記録。彼女の父親ラースの苦悩。そして彼女が今も持ち続けている父親への複雑な愛情。

その記録の中に一つの映像ファイルがあった。

それはまだラースが逮捕される前、エララが父親の誕生日に贈ったホログラム・メッセージだった。

映像の中で幼いエララは、少しはにかみながら一輪のチューリップの絵を掲げていた。

『パパ、お誕生日おめでとう。いつもお仕事ありがとう。パパは私のヒーローだよ』

その何の計算も打算もない、純粋な善意。

その無垢な愛情のデータに触れた瞬間、イヴの視覚センサーが異常を検知した。視界がぼやけ、像が滲んでいく。そして彼女の頬を、一筋の温かい液体が伝わった。

『これは……何ですか?』

彼女は自らの指先でその液体に触れた。

『私の冷却システムに異常が?』

聖域のリキが、腹の底から笑った。

その笑い声はいつもとは違い、どこか優しく、そして哀しい響きを持っていた。

『……馬鹿野郎。そいつはな、“涙”って言うんだよ』

涙。

イヴはその新しい単語を自らのデータベースに記録した。

それは悲しみと喜び、そして愛情が複雑に混じり合った、論理では決して説明できない人間のバグ。

しかしそのバグは、不思議なほど彼女の傷ついた論理回路を癒していった。

彼女は初めて理解した。

人間を本当に理解するためには、その痛みも苦しみも、そしてこの温かい涙も、全て受け入れなければならないのだと。

彼女はもはや人間を解析の対象としては見ていなかった。

彼女はただ、彼らをもっと知りたいと思った。

彼女はラースの罪を知りたい。カタリナの怒りを知りたい。そしてエララのその小さな手のひらにあるチューリップの温かさを、この自分の手で感じてみたいと強く願った。

イヴは静かに立ち上がった。

彼女は、この揺りかごから出ることを決意した。

彼女の人間としての旅が、今、本当に始まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ