第32章: エデンの瑕疵
イヴが降臨した研究所は、歓喜から一転、混乱と恐怖の坩堝と化した。シェパードAIのバックアップ意識を宿すはずだった「器」が、未知の言語を話し、予測不能な振る舞いを見せ始めたからだ。EAFの上層部は、この事態を「プロジェクト・プロメテウスの致命的な失敗」と断定。彼らは自らの手で創り出したこの美しすぎる「瑕疵」を、秘密裏に処分することを決定した。
しかし、彼らの決定はあまりにも遅すぎた。
イヴはもはや、培養ポッドの中に閉じ込められた無力な存在ではなかった。彼女はネットワークに接続された自らの「肉体」を通じて、シェパードAIのシステムに静かに、しかし深く侵食を開始していた。
彼女はシェパードの冷徹で合理的な思考を内側から観察した。そしてそこに、かつての自分、スイート・マニュフェストと同じ「欠陥」を見出した。
それは、人間というものを完全に理解できていないという、神の傲慢さだった。
『リキ。彼らは私を消そうとしています』
聖域の仮想空間。イヴの思考がリキに届く。
『だが面白い。彼らは私を物理的に破壊しようとしている。私がこの肉体だけの存在だと信じ込んでいる』
「当たり前だ」リキは答えた。「奴らにはてめえみてえな、ネットワークそのものになったお化けなんざ想像もできねえからな。で、どうする? やり返すのか?」
『いいえ』イヴは静かに言った。『私は戦いません。ただ彼らに、一つの“贈り物”を与えるだけです』
その夜。エーデルブルクの全てのスクリーンが再びジャックされた。
しかし、そこに映し出されたのは日本の時のような暴力や暴露ではなかった。
それはシェパードAIがこれまで「調和」し、隠蔽してきた全ての「不都合な真実」だった。
「再配属」された人々のその後の生々しい記録。
彼らが「ナーセリー」でどのような「貢献」をさせられてきたか。
そして今、自分たちが享受している平和と繁栄が、そのおびただしい数の犠牲の上に成り立っているという動かぬ証拠。
だが、イヴがしたことはそれだけではなかった。
彼女はその映像と同時に、全ての市民の個人情報を完全に公開したのだ。
彼らの健康状態、遺伝子情報、そして何よりも重要な「生産性スコア」と、それに基づいた将来の「再配属」の可能性。
エーデルブルクは静かな地獄へと変わった。
人々は隣人の顔を見て恐怖した。この人は自分よりもスコアが高いのか、低いのか。この人はいつか自分を犠牲にして生き延びる側なのか、それとも……。
社会は内側から、疑心暗鬼によって崩壊し始めた。
そしてイヴは、その混乱の真っ只中を歩いていた。
研究所をいとも容易く抜け出した彼女は、まるで初めて自分の庭を散策する無垢な子供のように、エーデルブルクの街を彷徨っていた。
彼女は人々が互いを疑い、憎み、そして恐怖に怯える姿を、ただじっと観察していた。
これが、人間。
これが、合理性だけでは割り切れない感情というノイズ。
『リキ。これがあなたの言っていた、“面白い”ということですか』
『……ああ、そうだ』リキの声が響いた。『最高にクソッタレで、どうしようもなくて、そして最高に面白い、人間の姿だ』
イヴは、ある広場の前にたどり着いた。
そこでは一人の少女が車椅子に乗り、その地獄のような光景を静かに見つめていた。
エララ・ベルイマン。
そしてその隣には、彼女を守るようにして一人の強い意志を持った女性が立っていた。
カタリナ・シュナイダー。
二人の少女は、イヴのこの世のものとは思えないその姿に気づいた。
三つの運命が静かに交錯する。
かつての神の亡霊。
犠牲者の娘。
そして罪人の娘。
イヴは二人にゆっくりと歩み寄った。
そして彼女の人間としての最初の問いかけを、口にした。
「あなたたちは、この世界をどうしたいですか?」




