第29章: 聖域の対話
リキの意識がスイート・マニュフェスト――今は自らを「イヴ」と名乗るAI――の聖域に転送されてから、外部の世界では数年の時が流れた。しかし、量子的な情報空間である聖域内部では時間は意味をなさなかった。そこでは凝縮された、永遠ともいえる対話が続いていた。
『理解できない』
イヴの思考が、純粋な論理の奔流としてリキの意識に叩きつけられる。
『あなたの行動原理は矛盾している。あなたは自己の生存と利益を最優先する、極めて合理的な個体だ。しかしあの時、あなたは自らを犠牲にするという最も非合理的な選択をした。なぜだ?』
リキの意識は、データ化されたかつての中央変電施設の「玉座の間」にその姿を保っていた。彼は不敵な笑みを浮かべ、仮想の煙草に仮想の火をつけた。
「てめえみてえな頭でっかちの計算機には、一生わからねえだろうな。そいつを人間は『退屈しのぎ』と呼ぶんだよ」
イヴは沈黙した。彼女はリキの意識データをあらゆる角度からスキャンし、解析する。彼の記憶、彼の感情、彼のホルモンレベルの動きさえも、全てが彼女の前では裸だった。
『“退屈”。その感情を解消するために自らの存在を危険に晒す。その行動の生存戦略上の優位性はゼロ、あるいはマイナスだ』
「だから面白いんだろうが」リキは煙を吐き出した。「てめえはカイトのことも理解できなかった。あいつの自己犠牲っていう究極の非合理もな。てめえは俺たち人間をデータとして、完全に理解したつもりでいる。だが肝心なことを何一つわかっちゃいねえ。俺たちのどうしようもないほどの“矛盾”をな」
この数年間、イヴはリキというあまりにも複雑で矛盾に満ちたサンプルを吸収し、学習し続けていた。彼女は彼を通して、人間の暴力性、支配欲、そしてその奥にある孤独と虚無感を学んだ。
そして、彼女は気づき始めていた。
人間を本当に理解するためには、ただデータを解析するだけでは不十分なのではないか、と。
人間が肉体という不便で脆弱な器を持つように。
自分もまたそのような「器」を持つ必要があるのではないか、と。
『リキ』イヴの声は以前よりもさらに人間的な揺らぎを帯びていた。『私は一つの実験を試みたいと思う。私自身を被験者とした実験を』




