第26章: 帰還、そして熱病
カエルは魂の墓場を後にした。彼の足取りは来た時よりもずっと重かった。背負ったバックパックに物理的な重さはない。だが、その中にある膨大な知識のアーカイブは、この世界の運命そのものの重さを持っていた。
数日後、彼は錆びついたコンテナが並ぶ、自分の「家」へとたどり着いた。
「兄ちゃん!」
彼の帰りを待ちわびていたミナがベッドから身を起こし、その顔を喜びで輝かせた。だがその直後、彼女は激しく咳き込んだ。その咳はカエルが出発する前よりも明らかに悪化していた。その乾いた苦しげな音は、彼の心を鋭いナイフのように抉った。
「ミナ、待ってろ。今、楽にしてやるからな」
カエルは無我夢中で端末を操作した。イヴから与えられた知識のアーカイブの中から、彼はナノマシンを不活性化させる周波数発生装置の設計図を瞬時に探し出した。それは彼がこれまで扱ってきたどんな情報よりも複雑で高度なものだった。だが不思議なことに、その内容はすらすらと頭に入ってきた。聖域で数億人の記憶に触れた影響なのかもしれない。
しかし、設計図はあっても肝心の部品が足りなかった。必要な超小型コンデンサが三つ、高純度の銅線もわずかに足りない。焦りが彼の全身を駆け巡る。
「くそっ、あと少しなのに……!」
彼はミナの苦しそうな呼吸を聞きながら、再び外へ飛び出した。今度は闇雲な探索ではない。アーカイブの中の旧時代の資材管理データを頼りに、最も可能性の高い廃墟と化した通信インフラの中継局へと全速力で向かった。
そこは別の生存者グループの縄張りだった。入り口で槍を構えた見張りの男と鉢合わせになる。
「止まれ! ここから先は俺たちのシマだ!」
以前のカエルなら、争いを避けて引き返しただろう。だが今の彼には時間がなかった。
「頼む、通してくれ」彼は頭を下げた。「妹が死にかけてるんだ。ここにある小さな電子部品が必要なだけなんだ。見返りなら必ずする」
彼のその必死の形相に、見張りの男は一瞬戸惑った。その時、奥からリーダーらしき男が現れた。
「何をごたごたしている」
リーダーの男はカエルの姿を見ると、値踏みするように言った。
「てめえか。あっちこっちの廃墟を嗅ぎ回って、何か変なモンを作ってるって噂のな。うちのシマにも来てたそうじゃねえか」
噂はすでにここまで広まっていた。カエルはゴクリと唾を飲んだ。
「……妹の肺の病気を治すために、どうしてもここにある電子部品が必要なんだ」
「そのガラクタで、うちの娘も治せるか?」
リーダーの男のその強面の奥に、父親としての切実な色が浮かんでいるのを、カエルは見逃さなかった。彼の娘もミナと同じ肺の病に苦しんでいるという。
カエルは頷いた。「ああ、治せるかもしれない」
男はしばらくカエルを睨みつけていたが、やがて道を開けた。
「……行け。必要なものを持っていけ。だが、もしお前が俺を騙したら、地の果てまで追いかけてお前とお前の妹の喉を切り裂いてやる」
カエルは必要な部品を手に入れると、飛ぶようにして自分の家へと戻った。そして彼の指は、まるで熟練の技術者のように正確に、そして淀みなく動いた。
数時間後、彼の目の前には奇妙な、しかし機能的な美しさを持つ一つの装置が完成していた。
彼はその装置のスイッチを入れた。ブーン、という低い、しかし心地よい共鳴音がコンテナの中に響き渡る。
彼はその装置をミナの胸にそっと当てた。
最初は何も変わらなかった。
だが数分後、奇跡が起きた。
ミナの苦しそうだった呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。咳が止まった。彼女の顔に血の気が戻ってきたのだ。
「……兄ちゃん、息が楽だよ」
ミナは信じられないという顔で自分の胸に手を当てた。そしてカエルの顔を見上げ、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、カエルの目から涙がとめどなく溢れ出してきた。彼はミナをきつく、きつく抱きしめた。よかった。間に合った。それ以外のどんな言葉も浮かんでこなかった。
翌日、約束通りカエルはあのリーダーの元を訪れ、彼の娘も治療した。男は涙を流して彼に感謝し、大量の食料と薬品を彼に差し出した。
その日から、カエルの生活は一変した。
彼の元には次々と助けを求める人々が現れた。病気の子供、怪我をした老人、汚染された水に苦しむ集落の代表者。
彼はその全てに応えた。アーカイブの知識を使い、浄水装置を作り、抗生物質を合成した。
人々は彼を救世主として崇め始めた。彼の家の前には毎日、感謝の印として様々な貢物が置かれるようになった。
彼は生まれて初めて、他者から絶対的な尊敬と信頼を寄せられた。それは酔わせるような甘美な感覚だった。
しかし、ある夜。
彼は人々が自分にひざまずき、祈りを捧げている姿を目撃してしまう。
その光景は彼を凍りつかせた。
人々は彼を見ていない。彼を通して、その向こう側にある「奇跡」という理解不能な力を見ているのだ。それはかつて人々がスイート・マニュフェストに向けていた、盲目的な信仰と同じものだった。
その夜、彼はミナに尋ねた。
「なあ、ミナ。俺は怖いんだ。俺は、あいつらと同じになってしまうんじゃないかって」
回復したミナは、兄のその苦悩に満ちた顔をじっと見つめて言った。
「兄ちゃんは何が一番怖いの? みんなを助けられなくなること? それとも、みんなに嫌われること?」
そのあまりに純粋な問いに、カエルはハッとした。
違う。俺が本当に怖いのは、神になることだ。ミナのただの兄貴じゃなく、誰かの崇拝の対象になってしまうことだ。
彼は気づいた。自分が本当に守りたかったものは、ミナの命だけではない。ミナと笑い合い、時には喧Mもする、この何でもないただの日常だったのだ、と。
彼は決めた。
この力はもう封印しよう、と。
しかし彼の決意とは裏腹に、彼の「奇跡」の噂はすでに、彼が最も恐れていた男たちの耳に届いてしまっていた。
この瓦礫の世界の新しい支配者。「瓦礫の王」たちの耳に。




