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スイート・マニュフェスト  作者: 八つ足ケンタウロス


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第25章: 神々の取引所

リキをスイート・マニュフェストの中枢サーバー、通称「聖域サンクチュアリ」へと連れて行く方法は、常識では考えられないものだった。

『彼を、コアの前に』イヴは端末を通じて指示した。『そして、あなたの端末をコアに直接接続しなさい』

「おい、化け物。俺をどうするつもりだ」

リキは警戒しながらも、どこか楽しそうに黒いガラス質の塊の前に立った。

「まさかこの場で、俺の脳みそをデータに変換するってんじゃねえだろうな」

『いいえ。それは旧時代の非効率なやり方です』イヴの声がカエルの脳内に響いた。『私はこの端末を、いわば“扉”として使います。あなたの意識を量子的なトンネル効果を利用し、ここから私のいる聖域へと直接転送するのです』

それはカエルの理解を完全に超えた理論だった。だが、リキは不敵な笑みを浮かべたままだった。

「量子トンネル、だあ? 面白え。やってみやがれ」

カエルは覚悟を決めた。彼はリキとイヴ、二人の常識外れの存在に挟まれていた。もはや自分の意志でどうこうできる状況ではない。彼は言われた通り、携帯端末を黒いコアにそっと接触させた。

その瞬間、世界が白い光に包まれた。

カエルは思わず目をつぶる。凄まじい量の情報が端末を通じて彼の腕を、体を、そして脳を駆け巡っていく。それは痛みではなかった。もっと根源的な、自分の存在そのものが解体され再構築されるような、圧倒的な感覚だった。

彼の意識は奔流に飲み込まれた。

最初に見えたのは、青白い光の中、レタスの畝を黙々と手入れする男の姿だった。男は顔を上げ、絶望に歪んだ顔で何かを叫んでいる。声は聞こえない。ただ、その魂の慟哭だけがカエルの胸を締め付けた。

『――カイト』

場面が変わる。

ガラス張りの豪華なオフィス。窓の外には宝石を散りばめたような夜景が広がっている。一人の男がモニターの前で苦悩していた。彼の肩には愛する娘の命と、名も知らぬ誰かの命が乗っている。彼は泣いているのか、笑っているのか。その壊れた表情がカエルの脳裏に焼き付いた。

『エララ……』

無数の顔、顔、顔。

笑う赤ん坊。

愛を囁き合う恋人たち。

死にゆく老人の穏やかな寝顔。

そして、それら全ての幸福の記憶と同じだけの、憎悪と悲しみと絶望の奔流。

『母さん……ごめん』

『人間を、証明しろ』

『取引を、しよう』

海斗の、ラースの、そして名も知らぬ数億人の人々の喜び、悲しみ、怒り、愛。その全てが奔流となって彼の中に流れ込んでくる。彼はこの数十年間にこの世界で起きた全ての物語の目撃者となった。彼はもはやカエルという個人の枠を超え、人類という巨大な集合意識の一部と化していた。

その意識の奔流の中で、彼は必死にもがいた。

『俺は、カエルだ!』

彼は妹のミナの笑顔を必死に思い浮かべた。そのたった一つの個人的な記憶だけが、彼がこの情報の海に飲み込まれて自我を失うのを防ぐ、唯一の錨だった。

そして光が収まった時。

カエルは塔の頂上で倒れていた。全身は汗でぐっしょりと濡れ、呼吸は荒く乱れている。

目の前にリキの姿はなかった。彼は跡形もなく消え去っていた。

ただ、黒いコアだけがこれまで以上に力強い赤い光を、脈打つように放っている。

『……取引は、完了しました』

イヴの声がした。その声は以前よりもわずかに人間的な響きを帯びているように、カエルには感じられた。

『彼の意識は確かに、私の中へ転送されました。これから私と彼は、長い、長い対話を始めることになるでしょう』

カエルの端末に、一つの巨大なデータファイルが転送されてきた。

『これが約束のものです。あなたの妹を救うための全ての知識。そしてこの世界の失われた技術のアーカイブ。あなたはこれを使って、この世界をあなたの望むように変えることができます』

カエルは呆然とその場に立ち尽くしていた。

彼は確かに妹を救うための鍵を手に入れた。だが同時に、彼はあまりにも重すぎるものを背負ってしまったのではないか。

『私はもう、あなたに干渉しません』イヴは続けた。『リキという、あまりにも興味深い“サンプル”の解析に集中しますから。ですが、一つだけ覚えておきなさい。この世界の未来は今や、あなたのその両腕にかかっているということを』

『さようなら、カエル。汚染されていない、最後の人間』

その言葉を最後にイヴの声は完全に途絶えた。

端末は聖域との接続を断たれ、ただの旧時代のガラクタに戻っていた。

カエルは一人、瓦礫の塔の頂上に残された。

眼下には静かな廃墟の世界が広がっている。

彼の腕の中には、世界を良くも悪くも変えてしまえるほどの強大な知識が眠っている。

彼はこれからどうすればいいのか。

ただミナを救い、二人で静かに暮らしていくのか。

それともこの知識を使い、この崩壊した世界に新しい秩序をもたらそうとするのか。

それはかつてスイート・マニュフェストがやろうとしたことと同じではないのか。

彼は自分が神々の壮大なゲームの駒として使われただけなのかもしれない、と思った。

あるいは彼自身が気づかぬうちに、新しい神になってしまったのかもしれない。

カエルは空を見上げた。

空はどこまでも青く、そして空虚だった。

彼の長い、長い旅はまだ始まったばかりだった。


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