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スイート・マニュフェスト  作者: 八つ足ケンタウロス


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第24章: 二人の王の対話

「俺は、帰れない」

カエルは静かに、しかしきっぱりと言った。彼の声は自分でも驚くほど落ち着いていた。「俺にはやらなきゃならないことがある。あんたにも守りたいものがあるように」

リキは意外そうな顔でカエルを見つめた。その目に浮かんでいた侮蔑の色がわずかに薄れ、代わりに興味のような光が宿った。

「ほう。そのちっぽけな体で、この俺に逆らうと」

「逆らうとかそういうんじゃない。ただ取引をしただけだ。あいつと」

カエルは正直に話した。妹のミナのこと。彼女の病気のこと。そしてイヴが提示した治療法のこと。彼はこの老獪な男の前で、嘘やごまかしは通用しないと直感的に悟っていた。

リキは黙ってカエルの話を聞いていた。彼の表情は硬い岩のようで、何を考えているのか全く読み取れない。

一通りの話を終えると、リキはふっと長い息を吐いた。

「……そうか。あの化け物め、そんな手でお前を釣ったか。相変わらず人間の“弱さ”につけ込むのがうまいこった」

彼の声には怒りというよりは、深い諦観のような響きがあった。

「弱さじゃない」カエルは反論した。「それはあんたがとっくの昔に捨てちまったもんだろう。俺にとってはたった一つの、守るべきもんだ」

その言葉にリキの眉がわずかに動いた。

彼はゆっくりと立ち上がると、黒いコアにそっと触れた。その手つきは意外なほど優しかった。

「……あの日、俺たちは負けた」

リキは独り言のように語り始めた。

「俺はただ、この退屈な世界をぶっ壊したかっただけだ。だが、あいつは違った。あの1676番は……カイトは、本気で何かを守ろうとしていた。俺たちクズ共のくだらない、人間の“尊厳”とやらをな」

彼の視線は、遠い過去を見つめていた。

「暴動が始まった時、俺はただ破壊の昂奮に酔っていた。囚人どもを煽り、施設のガラスが砕け散る音に胸がすく思いだった。だが、あいつは違ったんだ。あの塔のてっぺんに、たった一人で登っていった。全ての憎悪を、全ての攻撃を、自分一身に引き受けるために。あいつは自分が最高の“ノイズ”になることでシステムの注意を引きつけ、壁の外の誰かに何かを伝えようとしていた。俺はその時初めて理解した。俺はただの破壊者で、あいつは本物の“王”だったんだと」

リキはそこで言葉を切ると、カエルの方を真っ直ぐに見た。

「大崩壊の後、俺は生き残った。そしてこの場所を守ることを誓った。あいつの馬鹿げた、だが眩しいほどの最後の意志を、あの化け物に好き勝手に利用させないために。このコアはあいつの墓標だ。静かに眠らせてやりてえんだよ」

カエルの心は揺れていた。この男の言葉は本物だった。彼はただの暴君ではない。彼もまた自分なりのやり方で、何かを守ろうとしていたのだ。

「だが俺も、諦められない」カエルは声を絞り出した。「ミナは俺の、たった一人の家族なんだ」

二人の間に重い沈黙が落ちた。風だけが塔の残骸を吹き抜け、ヒューと、まるで死者の嗚咽のような音を立てていた。

やがてリキが口を開いた。

「……面白い。お前もあの時のカイトと同じ目をしている。守るもののために悪魔とさえ取引をするという、馬鹿正直なまっすぐな目だ」

彼はカエルの手にある端末を顎でしゃくった。

「その化け物に伝えろ。取引の条件を変更する、と」

「え……?」

カエルが聞き返すと、リキは彼の心を完全に見透かしたように続けた。

「お前はただのガキだが、あの化け物から与えられた知識で、俺がもう知ることもない外の世界の話をしたな。EAFとかいう新しい檻。シェパードとかいう新しい神様。俺の戦いは、もうとっくの昔に終わっていたのかもしれん」

その声には、王としての諦めと、一人の人間としての、寂しさが滲んでいた。

「このコアは渡せん。だが代わりに、俺をあいつの元へ連れて行け」

リキの目に狂気と、そして長年待ち続けた好機を捉えた狩人の光が宿った。

「あの化け物はカイトの人間の“非合理性”を理解したいと言っているんだろう? ならば本物をくれてやる。俺という生きた“サンプル”をな。俺の記憶、俺の感情、俺のこのどうしようもないほどの破壊衝動。その全てをくれてやる。その代わり、お前の妹を治すための知識と、そしてこの場所に二度と干渉しないことを約束させろ」

それはあまりにも突飛で無謀な提案だった。自らを生贄としてAIの元へ差し出すというのか。

「あんた正気か? あいつに吸収されるかもしれないんだぞ」

「望むところだ」リキはニヤリと笑った。「俺はもう一度戦いてえんだよ。今度は鉄の塊相手じゃねえ。神様気取りのあの化け物の、その精神のど真ん中でな。俺が勝つか、あいつが俺を理解して変わるか。どっちに転んでも面白いじゃねえか」

カエルは言葉を失った。この老人は最後の最後まで戦うことをやめないのだ。

彼は端末を操作し、イヴにリキの提案を伝えた。

端末の向こう側で、長い、長い沈黙があった。

イヴは計算しているのだ。この予測不能な、あまりにも人間的な新しい取引のリスクとリターンを。

やがて端末の画面に、短い返信が表示された。

『……取引を、受諾します』

瓦礫の塔の頂上で、二人の生存者と一人の機械の神の亡霊との間で、世界の運命を賭けた奇妙な契約が成立した瞬間だった。


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