第23章: 魂の墓場
特別区域は、地図から消された土地だった。大崩壊の後、列島を支配した無政府状態の中でさえ、そこは、誰も近づこうとしない、禁忌の場所として、静かに、そして不気味に、存在し続けていた。周囲には、旧時代の名残である、継ぎ目のない高い壁が、今も天を突くようにそびえ立っている。
カエルは、数日かけて、その壁に沿って歩き続けた。そして、ついに、一つの巨大な亀裂を発見した。それは、大崩壊の際の、地殻変動によって生じたものだろう。まるで、巨大な獣が、その爪で引き裂いたかのような、生々しい傷跡だった。
彼は、その亀裂から、内部へと足を踏み入れた。
息を呑んだ。
そこは、時間が、あの日、海斗が死んだ瞬間のまま、止まっているかのようだった。
建物の残骸は、黒く焼け焦げ、ねじ曲がった鉄骨が、空に向かって、苦しげな指のように伸びている。地面には、鎮圧ドローンの残骸が、まるで巨大な昆虫の死骸のように、無数に転がっていた。そして、その全てを、深い静寂が、支配していた。風の音さえ、ここには届かないようだった。
カエルは、携帯端末に表示された、スイート・マニュフェスト――今は、自らを「イヴ」と名乗る、その存在が示した座標へと、慎重に進んでいった。
座標が指し示していたのは、区域の中心に立つ、ひときわ高く、そして、ひどく損傷した、旧時代の通信塔だった。あの、伝説の場所だ。
塔の内部は、がらんどうになっていた。彼は、錆びついた非常階段を、一歩、一歩、確かめるように登っていく。彼の足音だけが、不気味に響き渡る。
そして、彼は、頂上にたどり着いた。
そこには、一つの、奇妙な物体があった。
それは、大崩壊の際の、凄まじいエネルギーによって、周囲の金属や瓦礫を巻き込みながら、融解し、そして、再び固まった、黒い、ガラス質の塊だった。その塊の中心で、何か、小さなものが、赤い光を、まるで心臓の鼓動のように、かすかに、点滅させている。
『あれが、コアか……』
カエルは、ゆっくりと、その塊に近づいた。そして、手を伸ばした、その瞬間。
「――それに、触るな」
背後から、低い、しゃがれた声がした。
カエルは、凍りついた。この場所に、自分以外の人間がいるのか。
彼は、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、一人の、老人だった。
その身なりは、ボロボロの布をまとっただけだったが、その眼光は、剃刀のように鋭く、カエルの全てを見透かしているかのようだった。その顔には、深い傷跡が、何本も走っていた。
「お前、何者だ。なぜ、ここに」
カエルは、かろうじて、声を絞り出した。
老人は、答えなかった。ただ、その鋭い目で、カエルと、彼が持つ携帯端末を、値踏みするように見つめている。
「お前……“外”の人間か? いや、違うな。その目、この世界のガキの目だ。だが、その機械……お前、あの“化け物”と、話をしているな?」
“化け物”。老人が、イヴのことを指しているのは、明らかだった。
「あんたこそ、誰だ。なぜ、この場所に」
「俺か?」老人は、ふっと、自嘲するように笑った。「俺は、ここの、墓守だ。この、クソみたいな魂の墓場のな」
彼は、ゆっくりと、カエルの方へと歩み寄ってきた。
「そのコアは、渡せん。それは、あいつが、俺たちが、人間だったという、最後の証だ。あの化け物に渡して、汚させるわけにはいかねえ」
その言葉と、その顔の傷跡。そして、圧倒的な存在感。
カエルの脳裏に、一つの名前が、浮かび上がった。
「……あんた、まさか。リキ、なのか」
大崩壊の時、海斗と共に、最後の反乱を率いたという、特別区域の、もう一人の伝説の王。彼は、あの日、死んだはずではなかったのか。
「フン。まだ、俺の名前を覚えている奴がいたとはな」
老人は――リキは、黒い塊の前に立つと、まるで、旧友の墓標でも守るかのように、その前に、どっしりと、腰を下ろした。
「ガキ、帰りな。ここには、お前の求めるものも、あの化け物が欲しがるものも、もう、何もない。あるのは、ただ、死人たちの、静かな眠りだけだ」
カエルは、追い詰められた。目の前の、伝説の男。そして、端末の向こう側で、全てを監視しているであろう、AIの亡霊。そして、彼の脳裏には、ミナの、苦しそうな顔が、ちらついていた。
彼は、決断しなければならなかった。
この墓守の言葉を信じ、ミナを見殺しにするのか。
それとも、この男を、倒してでも、コアを奪い、悪魔との取引を、完了させるのか。
瓦礫の塔の頂上で、二つの時代の生存者が、一つの、英雄の遺産を挟んで、静かに、対峙していた。




