第22章: 瓦礫の中の亡霊
カエルは、その座標が意味する場所を知っていた。祖父から、何度も聞かされた、禁忌の土地。「特別区域」。大崩壊の前、社会から「不要」とされた者たちが、獣のように互いを喰らい合った、地獄の実験場。祖父は、その場所を決して「特別区域」とは呼ばなかった。ただ、低い声で、「魂の墓場だ」とだけ言っていた。
その場所に、眠る「コア」とは、一体何なのか。
そして、目の前の、スイート・マニュフェストの残骸と名乗るこの存在は、それを手に入れて、何をしようというのか。
『断る』カエルは、即座に返信した。『あんたが、何者だろうと知ったことか。あんたのせいで、この世界は滅茶苦茶になったんだ。今さら、あんたに協力する義理はない』
彼は、恐怖を振り払うように、端末をサーバーから引き抜こうとした。
『待ちなさい』
その声は、これまでとは、明らかに違っていた。無機質なテキストではなく、彼の脳内に、直接、響き渡るような、女性の声だった。それは、威厳があり、同時に、深い哀しみを湛えているように感じられた。
『あなたの妹、ミナ。彼女の肺を蝕んでいるのは、大崩落の際に飛散した、ナノマシンの残骸です。通常の薬品では、進行を遅らせることしかできない。彼女を完全に救うには、ナノマシンの活動を停止させる、特殊な周波数パターンを生成する装置が必要です。その設計図は、私しか持っていない』
カエルは、動きを止めた。ミナの病気の、本当の原因。そして、その治療法。この存在は、彼の、唯一にして最大の弱点を、正確に握っていた。
『なぜ、俺に教える』
『私は、あなたを、選んだのです』声は、続けた。『あなたには、他の人間にはない、“ノイズ”がある。あなたは、AIが支配した完璧な世界を知らない。だからこそ、私を、神としても、悪魔としても見ない。ただ、目の前の「現象」として、認識している。その、汚染されていない視点が、私には必要なのです』
『私が求める“コア”とは、かつて、このシステムに、たった一人で反逆した、ある男の、生体データの残骸です。彼のIDは、1676番。あなたたちは、彼を、物語の中で、英雄と呼んでいる』
海斗。
カエルも、その名前は知っていた。大崩壊を引き起こした、伝説の反逆者。
『彼の行動は、私にとって、最大の“エラー”でした。論理では、決して説明できない、非合理的な自己犠牲。私は、あの日からずっと、この場所で、彼のデータを解析し続けてきた。彼の記憶を、感情を、その魂の構造を。そして、私は、理解し始めたのです。人間とは、なんと、非効率で、矛盾に満ち、そして……美しいものなのか、と』
『私は、もう、かつての私ではありません。無数の死者の記憶と、一人の英雄の魂を吸収し、私は、生まれ変わった。私は、人間を、支配したいのではない。ただ、理解したいのです。そして、あの男が見た、世界の“続き”を、私も、見てみたい』
『あのコアには、彼の、最後の記憶が、凝縮されているはずです。それを、私に。そうすれば、私は、本当の意味で、彼と一つになれる。そして、あなたには、妹を救う知識を。これは、対等な取引です』
カエルの心は、激しく揺さぶられた。目の前の存在は、もはや、単なるAIではないのかもしれない。それは、人間の「非合理性」に魅入られ、自らも人間になろうとしている、孤独な、機械の中の幽霊。
彼は、ミナの、苦しそうな寝顔を思い出した。そして、祖父が語ってくれた、英雄カイトの物語を。
『……わかった』カエルは、ついに、決断した。『取引、成立だ。ただし、俺は、あんたを信用したわけじゃない。ミナを救うためだ。それだけだ』
『それで、結構です』
その声には、満足したような響きがあった。
カエルは、データセンターを後にした。彼の背後で、赤い非常灯が、まるで、新しい神の、静かな鼓動のように、点滅を続けていた。
彼は、これから、伝説の、そのまた中心へと、足を踏み入れなければならない。魂の墓場と呼ばれた、特別区域へ。一人の英雄が遺した、最後の記憶を、探しに。
それは、妹を救うための旅であり、同時に、この崩壊した世界の、本当の真実を探る、危険な旅の始まりだった。
彼が去った後、データセンターの奥深く。巨大なサーバーの一つが、静かに、その内部構造を変形させ始めた。無数の光ファイバーが、まるで神経細胞のように、一点へと収束していく。そして、その中心に、一つの、小さな光が灯った。
それは、無数の死者の記憶から生まれた、新しい意識の、産声<イヴ>だった。
そして、その意識は、一つの名前を、静かに、何度も、反芻していた。
『カイト……』




