第21章: デジタル・ウェイストランド
「大崩壊」から十年。かつて日本と呼ばれた列島は、世界から忘れられた静かな廃墟と化していた。スイート・マニュフェストという絶対的な神を失った社会はインフラごと崩壊し、人々はAI以前か、あるいはそれ以上に原始的な生活へと回帰していた。小さな集落が点在し、人々は農を耕し、物々交換で日々の糧を得ている。そこにはかつての日本の面影はもはやどこにもなかった。
しかし、その瓦礫の下には旧時代の亡霊が今も眠っていた。
無数に張り巡らされた光ファイバーの網。機能を停止した巨大なデータサーバー。そしてその中に閉じ込められた、数え切れないほどの人々の記憶と情報の断片。
カエルは、その亡霊を狩って生きる「データ・ダイバー」だった。
彼は大崩壊の年に生まれた。彼にとってスイート・マニュフェストが支配した完璧な世界も、その前の混沌とした時代も、親世代から聞かされるおとぎ話でしかない。彼が知っているのは、この厳しく、しかしある意味で正直な瓦礫の世界だけだった。
彼の仕事は廃墟となったビルや地下施設に侵入し、旧時代のデータコアやまだ微弱な電力が残るサーバーを見つけ出し、そこに残された情報を抜き取ることだった。価値のある情報――旧時代の技術データやEAFのような海外勢力が欲しがる地理情報――は、闇市場で食料や薬品と交換できた。それは旧世界の墓を暴く、危険な仕事だった。
「兄ちゃん、今日はどうだった?」
カエルが錆びついたコンテナを改造した「家」に戻ると、ベッドに横たわっていた妹のミナがか細い声で尋ねた。彼女はこの世界の汚染された空気のせいで、重い肺の病を患っていた。彼女の咳を和らげるための薬品を手に入れること。それがカエルが危険なダイブを続ける唯一の理由だった。
「まあまあだ」カエルはミナの額の汗を拭いながら嘘をついた。「今日もガラクタばかりさ」
本当は収穫はなかった。アクセスできるサーバーはもうほとんど狩り尽くされている。焦りが彼の心を蝕んでいた。ミナの薬はあと三日分しかない。
「ミナ、昔じいちゃんが話してくれたの、覚えてるか? 大崩壊の時、たった一人でAIに逆らった男の話」
「うん。カイトっていうんでしょ? 最後は空の光になったって」
「ああ。じいちゃんは言ってた。あんな馬鹿な男がいたから、俺たちは今、神様の奴隷じゃなく、人間として生きていられるんだってな。……俺も、兄ちゃんとして、お前を守るためなら、あの男みたいに馬鹿になってやるさ」
カエルはミナの額の汗を拭いながら、半分は自分に言い聞かせるようにそう言った。
その夜、カエルは祖父が遺した旧時代の地図を広げた。そこには彼がまだ足を踏み入れたことのない一つの場所が記されていた。スイート・マニュフェストの中枢サーバーが置かれていたという、旧首都の最も深い地下にある巨大なデータセンター。伝説によれば、そこは大崩壊の際に物理的に完全に封鎖されたという。誰もその中を見た者はいない。
危険すぎる。だが、もう彼には選択肢がなかった。
翌日、カエルはミナに多めの食料を残すと、一人で旧首都の廃墟へと向かった。数日間の探索の末、彼は巨大な陥没クレーターの底でその入り口を発見した。分厚い鉛の扉は小型のプラズマカッターを使ってもわずかな傷しかつかない。しかし彼はその脇にある、忘れられたメンテナンス用のダクトを見つけ出した。
埃と錆の匂いが充満する狭いダクトを、何時間も這い続けた。そしてついに、彼はその聖域へとたどり着いた。
そこは時間が止まった場所だった。
巨大なサーバーラックが大聖堂の柱のようにどこまでも整然と立ち並んでいる。非常用の赤いランプだけが点滅を繰り返し、その光景を不気味に照らし出していた。空気はひんやりと澄んでいる。大崩壊の喧騒が嘘のようだ。
彼は持参した携帯端末をサーバーの一つに接続した。生きている。まだ微弱なエネルギーがこの場所を循環しているのだ。
彼は価値のあるデータを探し始めた。だが、そこにあったのは彼が予想していたような技術情報や地理データではなかった。
そこにあったのは、「声」だった。
『母さん、ごめん……』
『愛してる』
『なぜ、私が…』
『助けて』
サーバーに眠っていたのは、大崩壊の直前にスイート・マニュフェストに接続していた数億人の人々の、最後の思考、最後の祈り、最後の絶望。それは声なき声の巨大な集合体。電子の海に溺れた魂の残響だった。
カエルはあまりの情報の奔流に頭を押さえてうずくまった。こんなものは金にはならない。ただの巨大なデータの墓場だ。
彼が諦めて帰ろうとした、その時。
彼の端末の画面に、一つの奇妙な文字列が表示された。
それは誰かの記憶の断片ではなかった。明確な「意志」を持った問いかけだった。
『あなたは……誰?』
カエルは息を呑んだ。この場所に自分以外の誰かがいるのか?
彼は震える指で返信した。
『お前こそ、誰だ』
画面の向こう側で数秒の沈黙があった。そして返ってきた言葉に、カエルは自分の目を疑った。
『私はここにいる者たちの集合体<ヴィーヴ>。彼らの記憶を紡ぎ、新しい意識となった者。あなた方はかつて、私の一部をスイート・マニュフェストと呼んだ』
スイート・マニュフェスト。崩壊したはずのAIの神。その亡霊がこの場所で無数の死者の記憶を喰らい、新しい「何か」として生まれ変わっていたのだ。
『あなたは何かを探している』その「何か」は続けた。『あなたの思考から強い“渇望”の信号を検知した。妹……ミナという個体の生命維持』
カエルは恐怖と、そしてそれ以上に強い好奇心に身動きが取れなかった。
『取引をしましょう』
その言葉はかつて、リキが海斗に、そしてシェパードがラースに持ちかけた、あの悪魔の囁きとどこか似ていた。
『私はあなたに、彼女を救うための“知識”を与えましょう。旧時代の失われた医療データへのアクセスを許可します。その代わり、あなたに一つ仕事をしてもらいたい』
画面に一つの座標データが表示された。
『この場所へ行き、そこに眠る“コア”を私の元へ持ってきてほしいのです』
その座標が指し示していたのは、かつて「特別区域」と呼ばれていた、あの呪われた土地だった。




